先日、ある御門徒の方から、次のようなお尋ねがありました。
「一つお尋ねしたいことがあります。ある人から言われたのですが、仏様というのは、ショウネを入れていただかないといけないのでしょうか?私のところの仏様は、まだショウネを入れていただいていません。やはりショウネを入れないと意味がないのでしょうか?」
このようなお尋ねは、これまで多くの御門徒の方々からも何度となくありました。「ショウネ」というのは、仏教用語ではありません。私自身、あまり耳にしたことのない言葉ですが、伝えようとされる意味はおおよそ理解できます。漢字で表せば「性根」になるのでしょうか。つまり、絵像であったり木像であったりする御本尊に魂を吹き込み、生きたものにするといった意味でしょう。
妙好人として有名な讃岐の庄松(しょうま)さんに、これに関わるおもしろいエピソードが残っています。
庄松さんが、あるお寺にお参りしたとき、そこのお寺の住職が、からかい半分に庄松さんに次のように尋ねたそうです。
「うちの御堂のご本尊は生きてござろうか」
それに対して庄松さん
「生きておられるとも、生きておられるとも」
それを聞いた住職
「生きてあらっしゃるにしては、物をいわれぬではないか」
それに対して庄松さん
「ご本尊さまが、物をおおせられたら、お前らは、ひとときもここに生きておられぬぞ!」
それを聞いた住職は、ふるえあがったと伝えられています。
庄松さんの言葉からは、二つの事柄を味わうことができるかと思います。
一つは、如来様というのは、全てを見通す智慧の眼を開かれた方です。人間は、必ず心のうちに陰を持っています。人には見せることができない、また、自分でも直視することができない、そんな恥ずかしい面を必ず誰しもが持っているものです。人間は、何もかもを顕わにされれば、一時もここで生きてはいけないほどの罪深さを抱えていながら、普段、それに気づかずになんとなく過ごしています。そのことをズバッと指摘されて、この住職も震え上がったというわけです。
そして、もう一つは、如来様というのは、確かに生きておられる、しかし、凡夫と同じような姿で生きておるのではないということです。ご本尊様が、私と同じように物を言えば、それは、凡夫の姿とかわりません。「ショウネ」を入れなければならないと考える問題も、ここにあるように思います。ご本尊である阿弥陀如来でさえも、自分の手に合うように捉えようとするところに問題があるのです。
お寺の本堂にお参りされると、ご本尊が御安置されているお内陣と、御門徒がお座りになる外陣との間に、御簾(みす)がかかっているのをご存知でしょうか。普段は気づきにくいあの御簾一つにも深い意味があります。御簾というのは、外からの光が強いほど内が見えにくくなる特徴を持っています。見えにくいからといって、外から光をあてればあてるほど、内が見えなくなってしまいます。しかし、内を見えやすくする方法があります。それは、自分がいる外の光を暗くして、内から放つ光を強くしてあげることです。こちらを暗くすればするほど、内側がよく見えてくるのも御簾の大きな特徴です。阿弥陀如来とお浄土の世界は、私の方を明るくし、一生懸命見ようとすればするほど見えなくなるのです。私をできるだけ暗く虚しくし、ただ向こう側の光を受け続けようとするところに、自ずと開かれていく世界が、阿弥陀如来とお浄土の世界であることを、あの御簾は表しています。
ご本尊様に対して、私側の余計なはからいは禁物です。「ショウネ」を入れないといけない、こんな余計なはからいをした途端に、如来様は、私の前からお隠れになってしまわれます。お仏壇の前に座らせていただいたとき、けっして、私の方から凡夫の光をご本尊に当ててはいけません。お立ちになっているあのお姿は、私のところに既に念仏の声となって届いてくださっている証です。よくよく如来様の呼び声を聞かせていただかなければなりません。
私は、如来様に導かれ、お育ていただかなければ、どうにもならない凡夫であることを、改めて味わせていただきましょう。