先日、坊守から次のような話を聞きました。それは、仏教婦人会の役員の方々との何気ない世間話でのことです。今、何かと世間を騒がせている定額給付金の話が、仏教婦人会の中でも話題に上っていました。この定額給付金を、何に使うかということが話題になったときに、ある役員の方が、「私のところは、定額給付金を孫のご本山参りに使います」と申されたとのことでした。お金が何よりも大切かのように平気で振舞う人々が増えている中で、このような言葉を聞かせていただくと、やはりお寺という場所は、ありがたいところだなぁという気がいたします。
テレビで「お金を儲けて何が悪いのですか」と啖呵を切った社長さんが逮捕されたことは記憶に新しいですが、お金というのは、人の欲望が直に反映されるものです。「お金を儲けて何が悪いのですか」と啖呵を切る姿に違和感を覚えるのは、その姿が、まさしく欲望をむさぼる餓鬼の姿そのものだからでしょう。
日本人というのは、元々は、お金に関する感性には素晴らしいものを持っていたと思います。例えば、日本語の「はたらく」という言葉も、元々は、「傍(はた)を樂にする」というのが語源だと聞いたことがあります。「傍(はた)」というのは、自分の周りの者ということでしょう。働いて収入を得るということは、自分の為ではなく、自分の周りのものを楽にさせるという観念が昔の日本人にはあったのでしょう。まさしく仏法に通ずる観念です。
親鸞聖人が関東のお弟子の方に宛てられたお手紙の中に、お金に関する興味深い記述が残っています。
「御こころざしの銭三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候。」
これは、親鸞聖人が八十四歳の時に、覚信というお弟子に宛てられたお手紙の一番最後に記されているお礼の言葉です。三百文というのは、現在の貨幣価値に換算しますと、約六十万円ほどになるそうです。覚信というお弟子の方から、こころざしを頂かれて丁寧にお礼を申されていることがうかがえます。また、次のようなものもあります。
「銭二十貫文、たしかにたしかに給はり候。」
これは、真仏というお弟子の方に宛てられたお手紙の中の一節です。二十貫文というのは、現在の貨幣価値に換算しますと、約四千万円にもなる大金だそうですが、親鸞聖人の態度は、三百文の時と全く変わりません。こころざしが多かろうが少なかろうが、感謝の一言以上のものはないということでしょう。これは、簡単なようで実際には案外難しいことではないでしょうか。
四千万円もの大金を前にしても、全く同じ態度でいられることの答えは、蓮如上人の次の言葉にあるように思います。
「堺の日向屋は三拾万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。大和の了妙は帷一つをも着かね候へども、このたび仏に成るべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。」
三拾万貫という金額は、現在の貨幣価値に換算しますと、約六千億円にもなるそうですが、それほどの大金を手にしていても、命終わったとき、仏には成れないというのです。一方、普段の着るものにさえ苦労しておられる大和の了妙は、このたび命終わって仏に成るといわれています。
生と死の問題だけは、お金をどれだけ積んでも解決できるものではありません。どうしようもない凡夫である私が、阿弥陀仏と同じ悟りをこの身にいただき、仏に成っていくには、阿弥陀仏の深いお慈悲のお心を聞いていく他ありません。生死の問題を前にしたとき、六千億円もの大金も、ただの紙くずにならざるをえないのです。
人間に本当の安心と幸せをもたらすのは、この私を念じ続けてくださる深い如来様のお慈悲のお心だけです。たまたまいただいた、このかけがえのない人生において、如来様に遇わせていただくことが、何よりも大切なことであり、それが本当の幸せなのです。そして、その為にお金を使うことは、何よりも有意義な使い方といえるでしょう。何事も仏法中心、如来様中心で物事を考え、行動していく姿こそ、本当の念仏者の姿なのでしょう。