先日、あるお寺の秋季彼岸会の御講師として、初めてお招きに預かることがありました。正法寺以外のお寺でお取次ぎをさせていただくことは、初めてのご縁でしたので、非常に緊張いたしましたが、それ以上に、大変ありがたいご縁でもありました。
本堂いっぱいの参詣者の方々が、熱心にお聴聞してくださいましたが、最前列に殊更熱心にお聴聞される三十代と思わしき若い男性の方に目が留まりました。お寺にお参りに来られる方は、どこでもそうだと思いますが、まず、お年寄りが多く、その中でも女性が多いというのが普通です。正法寺でも、そういう方がおられるとうれしいですが、三十代の若い男性の方がお参りされることは、非常に難しいのが現状です。ご法座が終わった時、御住職に、その男性について尋ねずにはおれませんでした。どういういきさつで、その男性がお参りされるようになったのか、それは、次のようなことでした。
「あの男性は、まだ若いですが、萩焼の職人さんです。御門徒ではありませんが、私(御住職)の友人の一人なんです。前から、お参りに誘っていたんですが、きっかけは、彼の子どもでした。彼の子どもが、四歳か五歳になったとき、子どもが、彼に『お父さん、僕は、死んだらどうなるの?』って真剣に聞いてきたそうなんです。その時、彼は、答えられなかったそうです。そして、その時、自分自身の生と死について、この命がどうなっていくのかについて、本当のことが知りたい、そして、子どもに本当のことをきちんと教えられる父親になりたいと思ったそうです。それが、お聴聞をはじめるきっかけになったみたいです。」
父親に、自分の命について尋ねた子どもも有り難いと思いますが、それ以上に、その子どもの素直な問いを誤魔化さず受け止めていった父親の姿にも頭の下がる思いがします。
私達も、以前は子どもでした。まだ、この世に生を受けて間もないとき、私達は、どんなことを感じていたでしょうか?記憶からは消えてしまっているかも知れませんが、おそらく、同じような問いを一度は持ったのではないでしょうか?体と同じように、心も歳を取ります。年齢を重ねるうちに、不思議に感じていたことが当たり前のようになり、疑問に思っていたことが、うやむやのままに片付けられていくということが往々にしてあるのではないでしょうか?柔らかな若い心を失った多くの大人は、先ほどの子どもの問いに「火に焼かれて骨になり、お墓に入るのだよ」と平然と答えるかもしれません。しかし、子どもは、それに納得はしないはずです。なぜなら、それでは安心ができないからです。子どもを襲った問いは、大きな不安を抱えたものです。その大きな不安を安心に変えていくような答えを、私達は、持ち合わせていません。私達大人もまた、その不安を抱えているからです。
蓮如上人の『御文章』には、「後生の一大事を心にかけて・・・」というご教示が、度々示されています。「後生の一大事」というのは、「僕は、死んだらどうなるの?」という不安に他なりません。この大きな不安を誤魔化さず、向き合って心にかけていくことがなければ、如来様には出会えないということなのでしょう。
本当の宗教というのは、この命の根本不安に答えていくものなのです。この根本不安に答えようとせず、この世での幸せ、つまり、人の欲望だけを叶えようとするのは、本当の宗教ではありません。そして、この根本不安を持つのは、人だけなのです。多くの形ある命が存在する中で、ただ人だけが、この命に対する強烈な不安を感じることができるのです。人間の中だけに宗教心があるのもこの故です。
浄土真宗の救いというのも、親鸞聖人という方が、ご自身の中に強烈な不安を抱え、そして、想像を絶する苦しみの中で出会っていかれた大きな安心に他なりません。大きな不安をもって向き合えば、それに対して、如来様は、大きく響いてくださいます。しかし、如来様に向き合う不安を抱えていなければ、如来様も響きようがありません。子どものような素直な心で、今一度、自分の命を見つめてみたいものです。