「白骨の章」の教え

先日、ある御門徒の葬儀の後、初七日のご法事でのことでした。故人のご主人が、次のようなことを住職にお話されました。

「今日は、ご丁寧にお勤めいただいてありがとうございました。今日ほど御文章が身に染みた日はありませんでした。今まで何度と知人の葬儀に参列し、何度と御文章を聞かせていただいていましたが、やっぱり今までは他人事だったんですね。今日は、御文章を聞かせていただいて、本当に胸が詰まりました。」

『御文章』は、本願寺第八代宗主であった蓮如上人が、御門徒へ浄土真宗の味わいを平易に分かりやすく説くために書かれたものです。親鸞聖人の200回大遠忌法要をご縁に御門徒の方々へ向けて書かれ始め、その数は、五百年経った現在、蓮如上人直筆と認められるものだけでも250通以上になります。その内容は、一貫して信心を獲ることの大切さが説かれていきますが、当時の時代状況に即しながら、文字が読めない人でも、その言葉を耳に聞くだけで理解できるように、当時の話し言葉などを駆使して、難解な親鸞聖人の教義を噛み砕いて書かれています。手紙が唯一の情報手段だった時代、この『御文章』が、無数に書かれたことによって、蓮如上人のご法話が、日本全国津々浦々にまで届けられていき、浄土真宗の御法が、多くの人の上で花開いていったのでした。

その中でも、特に名文として知られているのが、浄土真宗の葬儀の時に必ず拝読される「白骨の章」といわれるものです。「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに・・・」という言葉で始まるこの『御文章』は、蓮如上人の血と涙の結晶のような『御文章』です。おそらく、蓮如上人ほど、人の命の儚さ、そして、肉親との死別の悲しみを味わった方はいないのではないでしょうか。生涯に四人の奥様とご長男、それに加えて、六人の娘さんとの死別を経験されておられますが、特に、教団が大きく発展していった文明二年~文明四年にかけて、蓮如上人を襲った悲しみは想像を絶するものがあります。

まず、文明二年十二月五日に奥様の蓮祐尼様が御往生されます。そして、年が明けて文明三年二月一日には、十二歳になった五女の妙意尼様が、さらに、妙意尼様の初七日もまだ迎えていない二月六日にご長女の如慶尼様が二十八歳で御往生されます。また、明くる年の文明四年の八月一日には、六歳になられる六女の了忍尼様が御往生され、その約二週間後に、二十五歳になられる次女の見玉尼様が御往生されています。僅か一年半ほどの間に、これだけの肉親に先立たれる悲しみは、いかほどのものでしょうか。しかし、その立ち上がれないほどの悲しみを背負っておられた蓮如上人だからこそ、あの「白骨の章」が生まれたのです。

五百年経過した現在でも、肉親を亡くした人の胸に響いてくる、そんな文章というのは、ただ文章を作ることが上手いだけでは書けるものではありません。「白骨の章」は、蓮如上人を襲った深い悲しみが、時を越えて、人々の胸に響いてくるものなのです。

人の無常なる有様が名文に乗せて語られる「白骨の章」の最後は、次のように締めくくられています。
「されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。」

人の無常の有様は、決して他人事ではありません。年齢に関係なく、誰にでも必ず訪れていくのです。亡くなっていった肉親の人生が儚かったように、ここに生きている私の人生もまた儚いのです。死者を通して、それに気づかされ、その儚い人生の中に真実の尊い意味を見出していったならば、死者の儚い命は、決して無駄にはなりません。それこそが、死者に対する本当の正しい態度であり、悲しみを乗り越えていく道でもあるのです。死者に対して「ご冥福を祈る」「安らかにお眠り下さい」と言う世界からは、誤魔化ししか生まれてはきません。

深い悲しみの中にこそ阿弥陀仏のお心は響いてくださいます。悲しみの中に迷っていくのではなく、悲しみの中だからこそ知らされる真実があります。そのことを「白骨の章」は教えています。仏法の言葉一つ一つを大切にできる日常でありたいものです。

2011年3月1日