先日、入院されているある御門徒の方のお見舞いに参らせていただいた時のことです。ご高齢ということもあり、すっかりお元気になられたという状況ではありませんでしたが、それでも、お話をしっかりさせていただけたのが、何よりも喜ばしいことでした。
住職 「〇〇さん、お念仏は申されていますか?」
御門徒 「はい」
住職 「如来様とご一緒でしたら、何があってもご安心ですね」
御門徒 「如来様が、いつもおがんでくださるので、ありがたいことです。」
仏法を聞き続けてこられた方特有のお慈悲が薫る柔和さに触れ、大変ありがたいご縁に遇わせていただけたことでした。
私達は、普段、如来様を前にしたとき、「如来様をおがむ」という姿勢が一般的でしょう。如来様は、私達の礼拝の対象です。阿弥陀如来様に手を合わせ、阿弥陀如来様に礼拝することが、正しい念仏者の在り方ともいえます。しかし、この方は、「如来様を拝むからありがたい」とはおっしゃられずに、「如来様に拝まれるからありがたい」と申されたのです。一般的には、聞きなれない表現ですが、ここにこそ、浄土真宗のご法義を正しく味わっておられる姿があります。「如来様に拝まれる」とは、いったいどういう心持を表しているのでしょうか。
「如来様に礼拝する」ことを、「如来様をおがむ」と表現することも間違いではありませんが、昔の浄土真宗の御門徒の方々は、「如来様にお礼をする」と表現されることが多かったようです。お礼をするというのは、先に向こうからの働きがあってさせていただくことです。何も関わりのない対象にお礼をすることはありえないことです。浄土真宗において、「如来様をおがむ」ことは、見えない相手に祈りや願いをかけている姿ではなく、如来様の働きに遇わせていただいた方が、その如来様に頭を下げずにはおれない感謝の想いが、姿となって表れているものなのです。日々の礼拝は、如来様のお慈悲のあたたかさに包まれ続けている姿です。その意味では、如来様を拝ませていただくこともありがたいことでしょう。
しかし、その如来様のお慈悲は、この私に、如来様に拝まれるという世界も同時に開いてくださいます。時より、お体が不自由になられたお年寄りの方から、「こんな私は、みんなに迷惑かけるばかりで、生きていてもしょうがない」というような趣旨の言葉を聞かせていただくことがあります。こういった言葉を聞かせていただくと、何とも寂しい思いがいたします。周りに迷惑をかけなければならない、もっと言えば、周りの方々にとって役に立たなくなれば、生きている意味はないのでしょうか?命の意味は、役に立つか立たないかで決められるものではありません。役に立つか立たないかで判断していくところには、決して命は見えません。そこに見えているのは、命ではなく道具です。道具は、使い物にならなくなれば、ゴミになります。『人間死ねばゴミになる』という本を書かれた方が、以前いらっしゃいましたが、これも、人の命を道具として見ている証拠でしょう。道具には、代わりが利きます。使い物にならなくなれば、同じ別の道具を使えば問題はありません。しかし、命に代わりは利かないのです。今、ここに頂いている命は、過去、現在、未来に亘って、けっして同じ命は生まれないのです。あらゆる深い因縁が無限に重なりあって、命というのは、はじめて成立するのです。同じ因縁が重なりあうことは、二度とありません。この掛け替えのなさこそが、命の尊さなのです。如来様は、この掛け替えのない命の輝きを拝んでくださるのです。たとえ、病になろうが、老いぼれていこうが、掛け替えのない命の輝きは、失せることはありません。如来様に拝まれ、如来様に認められた命を私は、生きていくのです。その尊い命に対する責任を、果たせているかどうかが問題です。案外、無駄にしてしまっているのではないでしょうか。
老いや病の中でも、如来様に拝まれていることを喜べる方は、自分の命の輝きに本当に出会えている方なのでしょう。自分の人生に合掌のできる歩みを、着実に歩ませていただきたいものです。