先日、ある御門徒宅に初盆のお勤めにお参りさせていただいた時のことです。三歳か四歳のお子様も一緒にお参りしてくれていました。まだジッと座っていることが難しい年齢です。最初は、静かに座っていましたが、しばらくしてゴソゴソと動き始めました。そのうちに、手にかけていたお念珠を足にかけて遊び始めたのです。すると、すぐにお婆さまに当たる方が、「いけません」と注意をされました。なんでもない当たり前の光景のようですが、とてもありがたいことだと思いました。
最近は、ご法事の参詣者が少なくなりました。高齢化に加え、社会的に親戚付き合いも希薄になる傾向があります。そんな中で、子どもの頃から仏事に慣れ親しむということも、難しい社会状況になっています。子どもの頃から仏事に慣れ親しむ中で、人は、大切なことを学んできたように思うのです。
お念珠を、なぜ足にかけて遊んではいけないのでしょうか?社会的な価値観で考えると、子供用のお念珠は、何百円かで購入することができます。社会的に大切なものとは、高価な物か命に関わるものでしょう。子供用のお念珠は、高価な物でも、命に関わるものではありませんが、それでも、大切に扱うべきものなのです。これは、人間社会の中で触れていく価値観とは全く異なる価値観です。
日本に初めて本格的な仏教思想を伝えてくださった聖徳太子は、亡くなる時に、遺言としてお后の橘大郎女に「世間虚仮 唯仏是真」というお言葉を残されました。これは、ご自身が、命終えていかれるときに「世の中のことは、全て虚しく偽りのものであり、ただ仏様だけが真実といえるものなのだ。だから、仏様の心を拠り所として生き、仏様の世界に生まれてくるようにしなさい」とお后に遺言されたのです。この遺言を受け、お后の橘大郎女が、お婆さまに当たる推古天皇に頼んで、聖徳太子を偲ぶために作ったのが、日本最古の刺繍であり国宝に指定されている「天寿国繍帳」です。聖徳太子が遺言された仏様の世界、阿弥陀如来の西方極楽世界が描かれたものです。
親鸞聖人も弟子の唯円に語ったお言葉として、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」というお言葉を残されています。本当に大切なものとは何か?について、聖徳太子の遺言と親鸞聖人のお言葉は、ピッタリと一致しています。煩い悩みを抱える人間境涯が作り出していくものの中に、本当に大切なものはないというのです。
人間境涯が作り出していく世界とは、自己都合が作り出していく世界です。人間境涯で美しく大切にされているものの一つに愛というものがあります。これは、相手を思いやる純粋な心を意味しています。しかし、仏教では、人間境涯が起こしていく愛は、愛欲や渇愛と呼び、仏様が起こす慈愛とは厳格に区別しています。人間境涯は、自己の都合に合うものを愛し、自己の都合を邪魔するものを憎むのです。それ故に、愛するものが憎悪の対象に変わっていくことが、いくらでもあります。変わるというのは、偽りだからです。真実であるなら、愛し続ける心が変わることは決してありません。人間境涯が作り出していく世界は、しっかりしているようなものでも危ういのです。
昔の人々が、仏事を大切に勤めてきたのは、本当に大切にすべきものが、そこにあることを感じていたからでしょう。現代の人々が、人間境涯が作り出していく世界の他には何もないと思っているとしたら、恐ろしいことです。それは、この世には、地獄・餓鬼・畜生しかないと言いながら、真っ暗な闇の中を彷徨っているようなものだからです。
真実といえる仏様が教えてくださる世界、それは、あらゆる命がお互いに輝きあえる世界です。愛と憎しみを超え、どんな命も同じように慈しまれていく世界です。人間境涯が自己都合を中心にして描き出していく愛と憎しみの世界とは全く異なった、浄土と呼ばれる清らかな仏様の世界があるのです。その微塵も我が雑じらない純粋な慈悲の世界に手を合わせ、頭を下げてきたのが仏事なのです。
理屈で教えるのではなく、仏事という仏様を中心とした宗教的空間の中で、本当に大切にすべきものをみんなで味わい、みんなで喜んでいく姿が大切だと思います。子や孫に、本当に大切にすべきものをきちんと伝えていく、そのような仏事の姿を大切にさせていただきましょう。
【住職の日記】