先日、ある御門徒のご法事の折に、お浄土についての御法話をさせていただきました。その後、お斎の席につかせていただいた時、故人の息子さんから、次のようなご感想をいただきました。
「父が若い時から、お寺によくお参りしたり、浄土真宗の本をたくさん読んでいたのは知っていましたが、父は、私に一度として、お寺に参りなさいとか浄土真宗を学びなさいと言ったことはありませんでした。浄土真宗のことだけではなくて、自分の趣味や好きなものを、あまり子どもに勧めるような父ではなかったのです。でも、今の御院家さんの御法話を聞かせていただいて、父は、自分の死をそんな風に受け止めていたのかと思うと、何か感慨深い思いがしました。」
仏教は、2500年もの間、人から人へと伝わってきました。しかし、仏教教団では、伝統的に「仏教を広める」という言葉は使われてきませんでした。それは、仏様のみ教えというのは、「私が広める」ものではなく、「仏様のみ教えそのものに広まる力がある」と考えられてきたからです。「仏教は、広まるもの」というのが、伝統的な仏教教団の味わいなのです。そのことを、この度、改めて教えていただいた気がいたしました。
仏教の教祖は、お釈迦様です。しかし、そのみ教えは、お釈迦様独自の考えや発想を元にしたものではありません。お釈迦様ご自身も、お弟子の阿難に対して、「私もまた真理の道を歩む修行者である」と語っておられるように、ご自身もまた、完成した存在ではなく、真理そのものから教えられ学ぶ立場に立っておられたことが分かります。仏教は、お釈迦様が発見された真理が語るみ教えなのです。
それでは、真理とは何でしょうか?それは、自己都合が微塵も雑じらない世界です。私達は、何を認識するにしても、必ず自らの自己都合を通して認識しています。自分にとって都合の良いものは、好意的に認識していきます。逆に、都合の悪いものは、敵意をもって認識していきます。人間境涯には、大きく分ければ、好きな人と嫌いな人とどうでもいい人の三種類の人間しかいないと言われます。私達は、誰が死んでも、同じように胸を痛め涙を流していくわけではありません。嫌いな人やどうでもいい人が死んでも、正直なところ、涙は流れないのではないでしょうか。仏教では、このような自らの自己都合を通して認識していく世界を、虚妄分別の世界といい、偽物の世界に生きていると教えています。
私達が自らの自己都合を通して認識している世界は、どれもが自分勝手に歪められた偽物の姿を見ているということです。本物の姿、つまり真理とは、誰の都合も通さずに捉えた、世界のありのままの姿を言うのです。そんなありのままの真理に触れたお釈迦様が語る言葉は、私達のような虚妄分別から紡ぎ出される迷いの言葉ではありません。虚妄分別の迷いの世界を破っていく、無分別の真理から紡ぎ出された清らかなる言葉なのです。
死という言葉も、虚妄分別の世界が紡ぎ出した言葉であり、死という世界もまた、虚妄であり偽物だと、お釈迦様は教えられています。仏教では、「生死一如」という言葉でもって、生と死を表わしていきます。生も死も一つの同じものだという意味です。しかし、虚妄分別の世界にしか生きることのできない私達には、どうしても同じものだとは思えません。生きていくことが素晴らしい人にとっては、死は、悲しい現実でしかありません。逆に、生きていくことが辛いことでしかない人にとっては、死は、希望になるかもしれません。私達には、どこまでいっても生と死は、真逆です。「生死一如」と悟っていく自分は想像ができません。浄土の教えは、そんな私に「生死一如と悟れなくてもいいから、わが浄土に生まれる身だと受け入れておくれ」と阿弥陀如来様が、願ってくださっていることを教えてくださるのです。
浄土真宗には、生死一如と悟れないまま、如来様の願いの中に、死もまたありがたいと合掌していけるような世界を味わえる姿があるのです。如来様の願いを受け入れ、浄土の世界が恵まれていく人の上には、今生の別れの寂しさはあっても、不気味な死はもう存在しません。不気味な死を抱えていない人の人生には、必ず明るさが灯ります。その浄土からの灯火が、また後に生きる人々を導いていくのです。
この世界において、お念仏を喜ぶ人々は、闇の中に灯った温かい灯火です。そんな温かい灯火とご縁をいただいたなら、私もまた、後の人々の灯火となっていくような生き方をさせていただきたいですね。
【住職の日記】