お寺とは、この大慈悲が告げる言葉を聞かせていただく場所です。一人ひとりが、大切に聞かせていただきましょう。

先日、ある御門徒の葬儀の折、次のようなことがありました。

還骨初七日の法要も終わって、車に乗り込もうとした時です。お見送りに出てくださったご家族の方々が、五歳のお子さんを囲んで、ひそひそとお話をされていました。

「〇〇君、御院家さんに聞きたいことがあるんでしょ。聞いてみなさい。ほら。」

 こんなお話が聞こえてきました。恥ずかしそうにしている五歳のお孫さんの質問を、奥様が代わって聞いてくださいました。

「人は、死んだら、どこいくの?って、御院家さんに聞きたいらしいんですけど、、、」

 とても素直な質問に、即座に「お浄土」と答えようと思いました。しかし、お浄土の意味も分からない子どもに、それだけを伝えて帰るのも申し訳ないと思い、「如来様に聞いたら分かるからね。お寺に遊びにおいでね。」と答えました。にこにこしながら、「またきてね」と手を振ってくれた姿が印象的でした。

自分自身の死を見つめることが出来るのは、生きとし生けるものの中で、人だけだといいます。人だけが、自分が死ぬことを知っているのです。お釈迦様の出家も、死人を目撃したことが大きな動機の一つとされています。自分自身が、死ぬことを思った時に訪れる言い知れない不安と恐怖は、人間なら誰もが抱えるものです。それは、子どもでも大人でも同じように抱えています。それを適当に誤魔化して生きるか、真剣に向き合うかの違いです。大抵の人々は、誤魔化して生きるのではないでしょうか。みんな死んできたのだから、何とかなると思っているのかもしれません。しかし、果たしてそうでしょうか。人は、目覚めない限り、どうにもならない惨めな存在のように思われます。

この問題と真剣に向き合い、乗り越えてきた人々の歴史が、仏教の歴史でもあるのです。親鸞聖人は、自分自身の死を「往生」という言葉で受け止めていかれました。「往生」というのは、「往き生まれる」という意味です。阿弥陀如来のお浄土に往き生まれることを「往生」といいます。死んでいくことを、生まれるとは、いったいどういうことでしょうか。私達にとって、「生まれる」と「死ぬ」とは、真反対の出来事です。「死ぬ」ことをつかまえて、「生まれるんだよ」と教えられても、納得できるものではありません。「生まれる」といえる根拠は、どこにあるのでしょうか。

法然聖人は、そのことを「かの仏願に順ずるが故に」と答えていらっしゃいます。阿弥陀如来が願っていらっしゃるからだというのです。阿弥陀如来というのは、『仏説無量寿経』に、その誕生の説話が説かれています。法蔵菩薩という名のある王子が、世自在王仏という仏様に会い、感動し、四十八通りの願いを起こします。そして、果てしなく永い時間をかけた修行の末、その願いが成就し、阿弥陀如来と呼ばれる仏様となったというのです。この説話が、私達人間にとって、どんな意味を持つものであるのかを、二千年以上の時をかけて、人類は、向き合ってきたのです。この『仏説無量寿経』の説話は、仏をして仏たらしめているものが、何であるのかが示されています。それは、「大慈悲」です。あらゆる命あるものを、慈しみ悲しんでいく姿です。お釈迦様の出現は、この大慈悲に、世界が包まれていることを教えるところにあったと見抜いていかれたのが、法然聖人や親鸞聖人です。

この私も、如来から深く慈しみ悲しまれています。大きなお慈悲の目当ては、他ならないこの私自身なのです。その如来が、この私に「お前は、私の国に生まれる仏の子だよ」と呼び続けてくださるのです。これは、自己をもった人の言葉ではありません。あらゆる命あるもののために在り続ける大慈悲が告げる言葉なのです。親鸞聖人は、この大慈悲が告げる言葉だから、真実なのだと教えられます。そこには、ただ、深い慈しみと悲しみしかないからです。自己の利益のためにということが微塵もないのです。

他人のことは分かりません。しかし、この私の耳に、如来の言葉が届いている以上、私の命の行く先は、お浄土しか有りえません。お寺とは、この大慈悲が告げる言葉を聞かせていただく場所です。一人ひとりが、大切に聞かせていただきましょう。

2014年1月1日