悲しみや苦しみが、ありがたい仏縁となってくださるところにお念仏の尊さがあります

先日、お寺のお掃除の折、ある御門徒の奥様と次のようなお話をさせていただきました。

住職
「いつも、御家族の看病などでお忙しいのに、よくお寺にお参りされて、ありがたいですね。」

奥様
「主人とお婆ちゃんの看病で、本当に忙しいです。腹が立つ時もありますが、お念仏申しながら、毎日を過ごしています。でも、主人が病気になって、看病させてもらう中で、気づかせていただくことがたくさんあります。今まで、当たり前に思っていたことが、ありがたいことだったことに気づかせていただきます。苦労がなかったら、気づかなかったことばかりです。天国が、なぜ迷いの世界なのか、ずっと疑問に思っていましたが、何もかも満ち足りた天国に住む人は、本当の幸せには気づかないのかなと思うんです。御院家さん、こんな受け止め方は、間違っていますか?」

 仏教では、悟りの世界に対する迷いの世界を六つに分けて示されます。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上がそれです。この中、天上と示されるものが、一般的に天国と呼ばれている世界です。キリスト教でも、神の国を天国と表現しますが、日本人一般が、天国という時は、仏教の天上に近いイメージを連想していると思います。キリスト教の天国は、神の愛が実現していく世界です。それは、純粋に苦しみや悲しみが神の愛によって癒されていく世界です。それに対して、仏教で示す天国は、楽しみが満たされていく世界です。すべてが、満ち足り、自分の思い通りになっていく楽園の世界です。一般的に、親しい方が亡くなって、「天国で見守ってください」などと言う時は、楽しい楽園をイメージされているのではないでしょうか。

しかし、この楽園もまた、迷いの世界であることを、お釈迦様は、教えておられるのです。実は、この六道と呼ばれる迷いの世界は、人間が、とるべき可能性のある姿を大きく六つに分けて示されたものなのです。決して、死後の世界のものとしてだけ、示されたものではありません。私達は、人間の姿をしているからといって、必ずしも人間の世界に生きているとは言えないところがあります。人間でありながら、憎しみ合い傷つけあっていく修羅の世界に生きる人もいます。また、人間でありながら、恥ずかしさを感じず、欲望のままに振る舞う畜生の世界に生きる人もいます。本当に地獄なんてあるのですか?という人もいますが、その人も、本当に苦しみ極まった地獄としか呼べない世界に堕ちていく可能性は、充分にあるのです。そんな中、楽園である天上の世界に生きる人もいます。人生に苦しみを感じず、全てが満ち足りた世界に生きる幸せな人がいても不思議ではありません。しかし、その楽園のような世界も永遠には続きません。終わりがあることを知らされるとき、楽園喪失の苦しみは、他とは比べようがないといいます。人生が、楽しみに満ちている人ほど、老いや病、そして、死んでいくことは、非常に深い苦しみとして襲ってくるのではないでしょうか。

親鸞聖人は、晩年、「さはりおほきに徳おほし」という言葉を残しておられます。氷が多ければ、溶け出す水が多いように、苦しみが多いからこそ、それによって教えられ、育てられるお徳も多いという意味です。人生における克服すべき課題は、私の欲望を思い通りに満たしていくことでは、決してありません。満ち足りた楽園である天上もまた、深い苦しみをもたらす世界なのです。欲望に振り回され、縁によって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の世界を経巡っていく、そんな私のどうしようもない不安定さを救い取りたいと願われ、立ち上がられた働きが、阿弥陀如来なのです。それ故に、阿弥陀如来のお慈悲は、私が抱える苦しみの中に働きます。悲しみや苦しみがあったからこそ、阿弥陀如来の温かいお慈悲に出会えたのです。

悲しみや苦しみが、ありがたい仏縁となってくださるところにお念仏の尊さがあります。お念仏申していく日々を大切にさせていただきましょう。

2014年2月1日