温かいお慈悲に身を浸し、御恩報謝の日々を送らせていただきましょう。

先日、ある御門徒のご法事のお斎の席で、お酒も程よく入った頃、御親戚の男性の方々と、次のような会話がありました。

男性A
「御住職、南無阿弥陀仏を称えると、本当にお浄土というところに往けるのですか?」
住職
「お念仏申せば、お浄土に往けるのは、間違いありません。」
男性B
「本当にそんな所に往けるのですかね。」
男性C
「死んだら、お浄土に往けるのは間違いないんだから、安心しておけばいいんですよ。」
男性D
「お浄土というのは、きれいなお花畑があるような所なのですか?本当に死んだ人と会えるのですか?」
住職
「お浄土は、大切な方と、また会える世界ですよ。でも、私達が、この頭で想像する世界は、どれもお浄土
とはいえません。お浄土は、この私が仏様としての命を賜っていく世界なのですよ。」

 仏事の際に供されるお食事のことをお斎(おとき)といいますが、お斎の席というのは、本来、世間話をする場ではなく、仏様のみ教えについて、自由に語り合う場なのです。普段、まともには聞けない事柄も、仏事の後のお斎の席では、案外、素直に聞けるものです。また、お酒が入っていれば、なおさらのことです。

親しい方との死別をご縁として勤められるご法事は、否応なく私自身に死というものについて考えさせます。この私も、そう遠くない先に、必ず命終えていくのです。しかし、私に想像できるのは、遺体が焼かれて骨だけが残るだろうという、他人の死から経験した目に見える体の現象だけです。死とは何であるのか、生とは何であるのか、これらに対する安心のできる答えを、私達は持ち合わせていません。仏様から見た私達は、不安をいっぱいに抱えて生き死んでいく悲しむべき凡夫なのです。

お浄土というのは、本来、「清らかな領域」という意味です。場所を表すものではありません。仏様と呼ばれる悟りを開いた方のみに開かれる清らかな領域をいうのです。清らかな領域というのは、あらゆる命、あらゆる事柄をありがたいものとして受け止めることのできる世界です。仏道修行というのは、この清らかな領域を目指して修行をします。若き日の親鸞聖人も九歳から二十九歳までの二十年間に亘り、仏道修行の日々を送られました。『歎異抄』には、親鸞聖人が弟子の唯円房に対して「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」とおっしゃったことが伝えられています。二十年に亘る命がけの修行の末に、親鸞聖人の目の前に開かれたのは、地獄一定の我が身だったのです。親鸞聖人にとって、「死んだらお浄土」というのは、けっして当たり前のことではありません。むしろ、ありえないことなのです。地獄一定の我が身を、お浄土に迎え取っていく背後に、どれほどの慈しみと悲しみが重ねられてきたのかに、心震わされたのが、親鸞聖人の信心でしょう。有名な親鸞聖人が唄われた「恩徳讃」に、その感動が綴られています。

「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし」

 阿弥陀如来が、このどうしようもない私に重ねてくださったご苦労を思えば、身を粉にしてその御恩に報いても報い足らない、また、そのお慈悲があったことを、普通なら気づくことのない私に気づかせてくれた先達の方々のご苦労を思えば、骨が砕かれても感謝せねばならないと吐露しておられます。法然聖人にお出会いになってからの親鸞聖人の人生は、一宗の開祖と仰がれるまでになる尊い人生でした。それは、この阿弥陀如来のお慈悲に平伏し、その御恩に身を粉にして、骨を砕きても報じていこうとする喜びに満ちた人生だったのです。

私が、お浄土に生まれるかどうかは、実は、私自身が問題にする話ではなかったのです。それは、阿弥陀如来が問題にしてくださった内容なのです。私が問題にすべきは、その阿弥陀如来の深い慈しみと悲しみを、私自身、正しくいただけているかどうかです。温かいお慈悲に身を浸し、御恩報謝の日々を送らせていただきましょう。

2014年12月1日