「お育てをいただく」と味わう

先日、お寺の近くの道で、微笑ましい光景に出会いました。自転車で道を走っていると、若い女性が、道端で背伸びをして遠くを見ている後姿が見えてきました。近づくと、それは、保育園の保護者の方でした。軽くご挨拶をして、そのまま自転車を少し走らせると、今度は、小さな女の子が二人、楽しそうに歩いている後姿が見えてきました。自転車から降りて、後ろから声をかけると、それは、保育園に通う三歳の女の子と、今年の三月に保育園を卒園した一年生のお姉ちゃんの二人姉妹でした。住職に気づいた三歳の女の子が、「園長先生!」と笑顔で呼んでくれます。大きなバッグを両手で抱え込んで、はじけるような笑顔で話しかけてくれます。住職が、「どこに行ってきたの?」と尋ねると、「お買いもの!」と答えが返ってきました。「二人だけで?」と尋ねると、これまた、「うん!」とはじけるような笑顔です。「すごいね。上手にお買い物に行けたんやね。お母さんに、いっぱい褒めてもらえるね。」と声をかけると、二人とも、嬉しそうに照れ笑いを浮かべていました。おそらく、二人の後ろで背伸びをしていたお母さんは、二人が、家を出る時からずっと、距離を置いて、二人に気づかれないように、二人の様子を見守っていたのでしょう。二人の姉妹は、お母さんは、ずっと家で待っていると思い込んでいるようでした。

親鸞聖人は、阿弥陀如来をお母さんに喩えられています。親には、父親と母親がいますが、子どもは、母親のお腹の中で命が育まれていきます。母親にとって、そんな子どもは、自分自身の一部でもあるのでしょう。母性というのは、母親だけが持ち得る、我が子に対する真実の愛情です。世の中に「優しい」という言葉は、溢れていますが、本当の優しさとは、どんなものなのでしょうか?親鸞聖人は、阿弥陀如来のお慈悲こそ、本当の優しさであり、身近なところで喩えるなら、それは、我が子を愛する母親の心のようだとおっしゃるのです。

以前、ある先生が、「本当の優しさというものは、本来、気づきにくいものだ」と教えてくださったことがありました。なぜ、気づきにくいのでしょう。それは、「私が、やってあげている」という自己主張がないのが、本当の優しさだからです。私達も、様々な形で親切心を起こします。人に親切にした時、相手からお礼も言われず、無視された場合、心の中は、どんな状態になるでしょう。少なからず、心の中にモヤっとしたすっきりしないものが、残るのではないでしょうか。そして、その「してあげたこと」を、いつまでも覚えてはいないでしょうか。私達は、親切心を起こしても、どこかに、醜いプライドのようなものが混じってしまうのです。これを親鸞聖人は、「雑毒の善」とおっしゃっています。私達の行う善い行いには、どこかに毒が混じっているというのです。自分の都合ではなく、純粋に相手の幸せを願い、その実現を喜べる心が、本当の優しさです。

先ほどの若いお母さんのお顔は、本当に楽しそうな明るい表情をされていたのが印象的でした。子どもの成長を見守ることが、楽しくてしょうがないのでしょう。七高僧のお一人である曇鸞大師が、「生死の園、煩悩の林のなかに回入して遊戯し…」と、仏様が苦しみ抱えた命を救う働きを表現するのに、「遊戯」という言葉を使っておられます。これは、仏様があらゆる命の苦しみを引き受けていくことは、仏様にとっての無上の楽しみであることを表すものです。他の命のために、自分が苦しい思いをすることが、楽しいのです。私達とは、真逆の在り方をしているのが仏様ですが、それは、私達にとって、最も気づきにくい存在だといえるでしょう。その気づきにくい仏様が、私を呼び続けてくださっているのです。気づきにくい真実の優しさに抱かれていることに、気づいていきなさいと教えてくださるのが、浄土真宗です。気づけば、生きること死ぬことの見方が、変わっていきます。嬉しいことも苦しいことも恐れていたことも、如来のお慈悲に抱かれていることを知った時、その意味が変わっていくのです。そのことを、浄土真宗の御門徒の方々は、「お育てをいただく」と味わってきました。

私の命に、優しいお母さんのように、そっと寄り添い抱いてくれる、そんな温かい働きの中に、かけがえのない人生を歩ませていただきましょう。

2015年10月1日