明けまして、おめでとうございます。今年も、御門徒の皆様と共にお念仏に薫る温かい日々を大切に過ごさせていただきたいと思います。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
さて、日本のお正月の代表的な風景というと、いくつか挙げられますが、その一つに初詣の風景があります。毎年、お正月を迎えますと、全国の有名な神社では、初詣に参拝する人々で溢れかえります。これは、何百年も続く、日本独特の風景でしょう。各々が、今年一年、幸せに過ごせるように、神様からご利益をいただきにお参りされるのが初詣の意味です。
そもそも、ご利益を説かない宗教というのはあり得ません。何も得るものがない教えというのは、教えとして意味をなさないからです。親鸞聖人も様々なお書物の各所で、浄土真宗の御利益についてお説きになっておられます。しかし、それは、私達が、お正月に神社にいただきに参る御利益とは、少し趣が違うようです。
先日、ある御門徒さんから、次のようなお話を聞かせていただきました。
「主人も姑も見送って、今は一人ですが、地区の役や孫の世話で、毎日忙しくさせていただいています。今も昔も思い通りにいかないことばかりですが、お寺でご法話をお聴聞させていただいているおかげで、しんどいことも有難いなと思わせていただけています。いつも如来様がいらしゃって、この人生の先にはお浄土があって、そう聞かせていただく中で過ごしてますと、毎日、色んな喜びがありますよ。一人になりましたが、毎日、何か明るい感じがしています。私、これが、浄土真宗の御利益なんじゃないかと思っているんです。」
本当の御利益とは、なんでしょうか。私達が求める御利益は、私の思い通りに成ることを御利益として考えているように思います。神社にお願いに行くのは、無病息災や恋愛成就、受験等の必勝祈願が多いのではないでしょうか。それらは、いずれも、この私の思い通りに事が進むことを願うものばかりです。確かに、病気に罹らずに一年を終えることや様々な災いが収まる、思い通りに受験に合格することは、大きな喜びをもたらすものです。思い通りに事が進んでいくことは、幸せなことでしょう。しかし、問題は、その喜びは、束の間のことだということです。一生、病気に罹らず災いにも襲われない人はいません。必ず最後には、最大の災いである死というものが、どんな人にも平等に訪れてくるのです。また、勝ち続ける人もいないのです。挫折や失敗を繰り返して、人は、多くのことを学んでいくのではないでしょうか。束の間の消えていく喜びは、本物の喜びではありません。束の間の喜びは、やがて愚痴に変わっていきます。せっかく頂いた掛け替えのない人生を愚痴で終わらしていくことは、本当にもったいないことです。
仏教が説く御利益は、世間的な損得勘定では量ることのできない本物の御利益です。それは、思い通りにはなってゆかない人生を、そのまま有り難いものとして喜んでゆける御利益です。お寺に参って如来様のお心を聞かせていただいても、相変わらず思いがけない病気に罹ったり、ひどく落ち込まされる災いに襲われたりします。どんなことをしても、私を中心に地球が回らない限り、すべてが思い通りにいくことはあり得ないことです。大切なのは、思い通りにいかない悲しみや苦しみをどうかして避けようとすることではなく、どのようにして受け入れていくかではないでしょうか。
親鸞聖人は、「この如来、十方微塵世界にみちみちたまへる」とお示しくださっています。この私の人生の至る所に阿弥陀如来様は、色んな姿でもって満ち満ちてくださっているという意味です。思い通りにならない悲しみや苦しみの出来事の上にも、お慈悲の如来様は、満ち満ちてくださっているのです。私には、悲しい出来事も、お慈悲の如来様からすれば、私にとって大切な意味を持つものなのかも知れません。如来様の一途な慈愛の中で、どんなことも、私の掛け替えのないお浄土への道のりとして、大切に味わい、力強く前を向いて歩んで行ける、そんな間違いのない道を与えられていくのが、浄土真宗の御利益でしょう。本物の御利益をいただける味わい深い一年にさせていただきましょう。