ある法事での一言「地獄に落ちるぞ!」

お寺の住職の呼び名で最も親しまれているものの一つに「お寺の和尚(おしょう)さん」というものがあります。この「和尚」という言葉、元々は、サンスクリット語の「upadheyaya」という言葉を漢訳したものですが、これは、「師」とか「先生」を意味するものです。一般仏教では、僧侶が師、檀家が弟子という立場を取り、修行をした僧侶が檀家を導きます。しかし、我が浄土真宗では、このような一般仏教の立場を取りません。僧侶も、僧侶でない者も同じ阿弥陀如来という命の親から願われている仏の子です。「門徒」とは「同門の徒弟」を意味し、僧侶と門徒は同じ親を持つ兄弟という立場を取ります。しかも、僧侶は門徒と呼び捨てにはせずに、御門徒と敬語をつけて一般信者に接します。これは、僧侶も御門徒から教えられ、導かれるという立場を取るからです。僧侶と御門徒、お互いに阿弥陀如来という同じ親を持つ兄弟として敬いながら、教えられ、導かれ、お念仏の道を歩んでいくのが浄土真宗の立場だといえます。
このコーナーは、浄土真宗の僧侶として日々、御門徒の方々と接し、教えられ、導かれてばかりの住職が、その心の内を素直に書き綴ろうとするものです。第一回目の今月は、ある御法事での出来事を紹介したいと思います。
ある御法事でご親戚の方と次のようなやり取りがありました。

ご親戚 「お坊さん、私も浄土真宗ですが、今までお寺に参ったことがありません。」
住職 「そうですか。・・・・」
ご親戚 「先日、私のところの住職が、正月に神社ばかりに参らないで、正月はお寺にお参りくださいと言われたのですが、正月にお寺に参るなど初めて聞きました。」
住職 「お寺でもお正月には、元旦会といって、元旦をお祝いしながら仏縁に遇う御法座があるんですよ。お酒も出ます。」
ご親戚 「お酒がでるんですか?一度、参ってみようかな。」
その時、ご親戚の方の隣に座っておられた九十歳を超えるご婦人の方が、聞き返してこられました。
ご婦人 「何の話ですか?」
ご親戚 「お婆ちゃん、私は、今まで一度もお寺に参ったことがないのです。(笑)」
ご婦人 「地獄に落ちるぞ!」

最後のご婦人の言葉で、その場が一瞬凍りついたような感覚に襲われました。それほど、ご婦人の言葉は、真実に裏づけされた自信と力強さに満ちておりました。七十年以上、浄土真宗門徒として聞法を続けてこられたそうですが、さすが、二十代の住職とは、迫力もありがたさも違います。
しかし、皆さんはこのご婦人の言葉を聞いてどのように思うでしょうか。誰もが死ねば仏に成るという意識は、日本人の多くが持っているものです。しかし、このご婦人は、人間、そのまま死ねば地獄に堕ちるしかない身であることを、長年の聞法生活の中で確認しておられるのだと思います。人間、お寺に参らないから地獄に堕ちるのではなく、生まれたときから地獄まっしぐらな日々を送ってきているのです。
そのような私をそのままにしないで、お浄土に生まれるにふさわしい念仏の行者に育てようと誓いを起こされたのが阿弥陀如来です。しかし、育てようにも教えの言葉が届かない者には、育てようがありません。親の言葉を聞こうとしない不良息子のようなものです。お寺とは、親の言葉を聞き、地獄へ向かって歩んでいる私が、親に導かれ、お浄土への歩みを運ばせていただくところなのです。
それにしても、臆することなく「地獄に堕ちるぞ!」と言い切っていける心には、頭が下がるばかりです。

2007年3月1日