私の掛け替えのない人生を、そのままで喜ばせていただける、尊い毎日を歩ませていただきましょう。

先月、保育園のご縁で、雷門で有名な天台宗の古刹、東京の浅草寺にお参りさせていただくことがありました。生まれて初めてお参りさせていただきましたが、参詣者のあまりの多さに驚いたことでした。参道の両脇には、たくさんのお店が立ち並び、前が見えないほどの人だかりです。境内に入ると、今度は、両脇におみくじやお札が売られている建物があり、そこも、すごい人だかりでした。私達のご本山である京都の西本願寺と比べると、参詣者の数は、圧倒的に浅草寺の方が上です。西本願寺は、普段、前に進めないほどの人だかりになることは、まずありません。お寺に、なかなか人が集まらない時代に、これだけの人々がお参りされるお寺というのは、正直、すごいことだと思いました。

しかし、同じ仏教寺院でも、浅草寺と西本願寺とでは、決定的に異なる点があります。それは、おみくじやお札です。おそらく、これが、圧倒的な参詣者の数の差をもたらしている大きな要因の一つだと思います。私達のご本山、西本願寺では、おみくじやお札は、売っていません。また、全国の浄土真宗のお寺でも同様に売っているお寺は、一ヶ寺もありません。もし、浄土真宗のお寺で、おみくじやお札を売るようなことがあれば、浄土真宗から破門されなければならないでしょう。それは、おみくじやお札に頼ることは、親鸞聖人のみ教えに反することだからです。

しかし、親鸞聖人が、おみくじやお札に頼ることを否定されたのは、特別な思想をお持ちになられたからではありません。それが、本来、仏教の教えにそぐわないものだったからなのです。そもそも、仏教というのは、どの御宗旨においても、人間が抱える根本苦を超えていく道が教えられているものです。その根本苦を、仏教では、生・老・病・死という四苦と愛する者と別れなければならない愛別離苦・怨み憎むべき者に会っていかなければならない怨憎会苦・求める物が得られない求不得苦・肉体と精神が思うがままにならない五蘊盛苦の四つ苦しみを加えた四苦八苦として示されます。人間として生きる限り、決して避けることのできない苦しみです。この決して避けることのできない苦しみを、人間というのは、何とか避けようとして生きようとするのです。その人間の願いを叶えようというのが、おみくじやお札です。

自分自身が、思いがけない病に侵されたり、大切な身内が次々と死別していくような不幸に見舞われた時、なぜ自分だけが、こんな目に合わなければならないのかと自分の境遇を恨んでいきます。このような不幸が自分の身には降りかからないように生きていきたいと願うのが、人としての当たり前の姿でしょう。誰もが、自分と自分の身内の幸せを願うのです。そして、その幸せが侵されていくことに、人は、大きな不安を抱いていきます。その不安に突き動かされて求めていくのが、おみくじやお札なのです。しかし、おみくじやお札は、その不安を誤魔化すことはできますが、本当の解決にはなりません。おみくじやお札に頼ったところで、人は必ず、老いて病んで死んでいくのです。愛する者と別れていくことも憎むべき相手に出会っていくことも、相変わらず繰り返していきます。

浄土真宗の僧侶や御門徒方も、八百年という永い歴史の中で、戦争や疫病、大災害など、数限りない不幸に見舞われてきました。しかし、その度重なる苦難の中で、一度もおみくじやお札に頼ることのない歴史を重ねてきたのです。これは、仏教徒として誇るべきことだと思います。お釈迦様が避けることができないと教えておられるものを、避けようと右往左往することは、仏の教えの言葉を聞こうともしない外道の人々の姿です。親鸞聖人が、おみくじやお札に頼ることを厳しく批判されたのは、それが、仏教徒としてあってはならない姿だからなのです。

仏様の教えの中に、避けることのできない人間苦を超えていく道は、すでに開かれています。それを正しく聞き受け実践していこうとするのが、本当の仏教徒です。浄土真宗は、お念仏を申すという生き方の上に、その道を歩ませていただくのです。私の不安を、阿弥陀如来様は、お念仏となって、そのまま抱いてくださいます。私のことを、決して離さない大悲の親様です。どんな時でも、南無阿弥陀仏は、大丈夫と響き続けてくださいます。どんな不幸なことの中にも、尊い意味があることを教えてくださいます。老いて病んで死んでいく人生が、そのままで如来様から慈しまれるほどの尊い意味を持っていることに出遇っていくのです。 先月、保育園のご縁で、雷門で有名な天台宗の古刹、東京の浅草寺にお参りさせていただくことがありました。生まれて初めてお参りさせていただきましたが、参詣者のあまりの多さに驚いたことでした。参道の両脇には、たくさんのお店が立ち並び、前が見えないほどの人だかりです。境内に入ると、今度は、両脇におみくじやお札が売られている建物があり、そこも、すごい人だかりでした。私達のご本山である京都の西本願寺と比べると、参詣者の数は、圧倒的に浅草寺の方が上です。西本願寺は、普段、前に進めないほどの人だかりになることは、まずありません。お寺に、なかなか人が集まらない時代に、これだけの人々がお参りされるお寺というのは、正直、すごいことだと思いました。

しかし、同じ仏教寺院でも、浅草寺と西本願寺とでは、決定的に異なる点があります。それは、おみくじやお札です。おそらく、これが、圧倒的な参詣者の数の差をもたらしている大きな要因の一つだと思います。私達のご本山、西本願寺では、おみくじやお札は、売っていません。また、全国の浄土真宗のお寺でも同様に売っているお寺は、一ヶ寺もありません。もし、浄土真宗のお寺で、おみくじやお札を売るようなことがあれば、浄土真宗から破門されなければならないでしょう。それは、おみくじやお札に頼ることは、親鸞聖人のみ教えに反することだからです。

しかし、親鸞聖人が、おみくじやお札に頼ることを否定されたのは、特別な思想をお持ちになられたからではありません。それが、本来、仏教の教えにそぐわないものだったからなのです。そもそも、仏教というのは、どの御宗旨においても、人間が抱える根本苦を超えていく道が教えられているものです。その根本苦を、仏教では、生・老・病・死という四苦と愛する者と別れなければならない愛別離苦・怨み憎むべき者に会っていかなければならない怨憎会苦・求める物が得られない求不得苦・肉体と精神が思うがままにならない五蘊盛苦の四つ苦しみを加えた四苦八苦として示されます。人間として生きる限り、決して避けることのできない苦しみです。この決して避けることのできない苦しみを、人間というのは、何とか避けようとして生きようとするのです。その人間の願いを叶えようというのが、おみくじやお札です。

自分自身が、思いがけない病に侵されたり、大切な身内が次々と死別していくような不幸に見舞われた時、なぜ自分だけが、こんな目に合わなければならないのかと自分の境遇を恨んでいきます。このような不幸が自分の身には降りかからないように生きていきたいと願うのが、人としての当たり前の姿でしょう。誰もが、自分と自分の身内の幸せを願うのです。そして、その幸せが侵されていくことに、人は、大きな不安を抱いていきます。その不安に突き動かされて求めていくのが、おみくじやお札なのです。しかし、おみくじやお札は、その不安を誤魔化すことはできますが、本当の解決にはなりません。おみくじやお札に頼ったところで、人は必ず、老いて病んで死んでいくのです。愛する者と別れていくことも憎むべき相手に出会っていくことも、相変わらず繰り返していきます。

浄土真宗の僧侶や御門徒方も、八百年という永い歴史の中で、戦争や疫病、大災害など、数限りない不幸に見舞われてきました。しかし、その度重なる苦難の中で、一度もおみくじやお札に頼ることのない歴史を重ねてきたのです。これは、仏教徒として誇るべきことだと思います。お釈迦様が避けることができないと教えておられるものを、避けようと右往左往することは、仏の教えの言葉を聞こうともしない外道の人々の姿です。親鸞聖人が、おみくじやお札に頼ることを厳しく批判されたのは、それが、仏教徒としてあってはならない姿だからなのです。

仏様の教えの中に、避けることのできない人間苦を超えていく道は、すでに開かれています。それを正しく聞き受け実践していこうとするのが、本当の仏教徒です。浄土真宗は、お念仏を申すという生き方の上に、その道を歩ませていただくのです。私の不安を、阿弥陀如来様は、お念仏となって、そのまま抱いてくださいます。私のことを、決して離さない大悲の親様です。どんな時でも、南無阿弥陀仏は、大丈夫と響き続けてくださいます。どんな不幸なことの中にも、尊い意味があることを教えてくださいます。老いて病んで死んでいく人生が、そのままで如来様から慈しまれるほどの尊い意味を持っていることに出遇っていくのです。私の掛け替えのない人生を、そのままで喜ばせていただける、尊い毎日を歩ませていただきましょう。

2017年4月1日

死は忌み嫌うべきものではなく、生も死も共に尊い意味があります。

先日、あるご法事の席で、次のようなお尋ねがありました。

 「最近、私も、お寺でお話を聞かせていただくようになったんですが、浄土真宗では、死んでいくということを悪いことじゃなくて、良いこととしてお話をされますよね。死んでいくことを良いこととして受け止めないといけないんですよね。難しいことですけど。」

 生と死をどのように受け止め味わっていくかは、どの宗教にとっても大きな問題です。親鸞聖人のひ孫に当たる本願寺第三代目の覚如上人という方が、生前中の親鸞聖人について、次のようなエピソードがあったことを紹介されています。

 「人間の八苦のなかに、さきにいふところの愛別離苦、これもつとも切なり。・・・・・つぎにかかるやからには、かなしみにかなしみを添ふるやうには、ゆめゆめとぶらふべからず。もししからば、とぶらひたるにはあらで、いよいよわびしめたるにてあるべし。「酒はこれ忘憂の名あり、これをすすめて笑ふほどになぐさめて去るべし。さてこそとぶらひたるにてあれ」と仰せありき。しるべし。」

人間が経験していく苦しみの中で、愛する者と別れていく愛別離苦の苦しみは、最も切実なものです。愛別離苦の悲しみの中にある人に対して、さらに悲しみを重ねていくような慰め方をしてはならないと親鸞聖人が戒められたというのです。そして、愛別離苦の悲しみの中にある人には、お酒でもすすめて、憂いを紛らわし、笑顔の一つでも見せてくれるように慰めていきなさいとおっしゃったといいます。

浄土真宗では、命終えていくことを阿弥陀如来のお浄土に生まれていくと聞かせていただきます。しかし、愛別離苦の悲しみの中にある人に対して、「亡くなった人は、お浄土に生まれていったんだから、泣いてはならない、喜びなさい」というように、愛別離苦の悲しみを否定するようなことがあってはならないというのです。悲しみや苦しみを抱くものだからこそ、私たちは、阿弥陀如来に願われているのです。誰にも分ってもらえない悲しみにも、阿弥陀如来は、そっと寄り添い一緒に悲しんでくださいます。悲しみや苦しみがあるからこそ、私たちは、それを大悲してくださる仏様に出遇うことができます。私たちにとって、悲しんだり苦しんだりすることは、大きな仏縁となっていくとても大切な事なのです。

しかし、その一方で、私たちは、不気味に映る死を前にして、死そのものを忌み嫌っていくという感情も抱いていきます。当たり前のことですが、今生きている私達は、自分が死んでいくということを経験したことがありません。また、死んだ人に、死とは何なのかを聞くこともできません。それだけに死んだ人を前にすると、その不気味さに恐れを抱いていくのです。不気味な死というものが、自分にも訪れるのかと思うと、それを直視することができません。自分が死んでいくということから目をそらし、迷信に頼り誤魔化しながら、不安の中で人生を過ごし、それでも、不気味な死を避けることが出来ずに、否応なく死んでいかなければならないのです。そのような死を忌み嫌い、恵まれた人生を、本当の意味で喜ぶことのできない在り方を仏様は、間違っていると教えておられるのです。

お釈迦様は、死が不気味なものでないことを、自らお示しくださいました。お釈迦様の死に立ち会った仏弟子の方々は、お釈迦様の死を涅槃(ねはん)に入られたと受け止めていかれました。涅槃(ねはん)というのは、ニルバーナというインドの言葉がなまったものです。ニルバーナは、「本物の安らぎ」という意味です。お釈迦様の死は、立ち会った方々の目に不気味には映らなかったのです。本物の安らぎの中に入っていかれたとしか思えないような死に様だったということでしょう。親鸞聖人も、世間のことは一切口にされず、ただ仏様への感謝の言葉ばかりを口にされ、念仏の息の中、臨終を迎えられたと伝えられています。これも不気味ではありません。お浄土という、深い安らぎの中へ生まれていかれたのです。

死は忌み嫌うべきものではなく、生も死も共に尊い意味があります。生き死んでいく私を、仏様のみ教えの中で、大切に味わわせていただきましょう。

2017年3月1日

みんなお浄土でお待ちです。

ある御門徒のお取り越し報恩講にお参りしたときのことです。90歳を迎えられた御当主が、次のようなお話をしてくださいました。

 「年末には、今年も年忌表をいただき、ありがとうございました。年忌表を見ておりますと、今年は、前住職様、前坊守様も十三回忌になるんですね。その他にも、お世話になった方々の名前がたくさん載っていて、色々と懐かしく拝見させていただきました。今まで、色んな方に本当にお世話になってきましたし、お別れもたくさんしてきました。しかし、考えてみますと、聖人様のおかげで、みんな同じお浄土にやっていただけることを聞かせていただけていることは、ありがたいことですなぁ。ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・・」

 浄土という世界について、仏教経典には、様々な形で説かれています。基本的な意味は、「仏様の浄らかな領域」ということです。あらゆる命を平等に愛おしく輝くものとして見ることのできる智慧を獲得し、あらゆる命を自らのこととして悲しみ、慈しんでいく慈悲の心を起こしていく、そんな浄らかな仏様が、感受していく世界を浄土というのです。小さな虫でも、凡夫には虫けらと感受していくものが、仏様は、キラキラ輝く愛おしい掛け替えのない命と感受していきます。一滴の水も、凡夫には、ただの水と感受するところが、仏様は、八功徳水と示されるような無限のお徳を湛えた水と感受していきます。そのような仏様が、感受していく真実の命の姿を捉えた世界を浄土というのです。そんな浄土の世界は、あらゆるものを慈しみ愛してゆける輝きに包まれた世界であり、喜びと安心に溢れてゆく世界です。阿弥陀如来の願いは、この浄土の世界を、あらゆる命の上に、もたらしていきたいというものなのです。

私たちが現在生きている世界を、仏教では娑婆といいます。娑婆は、個々の我執によって感受していく世界です。自分の都合に合う命に対しては、愛おしさをもって感受していきますが、自分の都合を邪魔する命に対しては、憎しみをもって感受していきます。そして、その都合は、人によって千差万別です。娑婆は、そんな風に、それぞれが、それぞれの都合によって、バラバラに描き出していく世界です。同じ世界に生きているようで、本当の意味で一つの世界に身を置いていません。他人の気持ちは、誰も本当の意味で分からないのが娑婆です。たとえ、親であっても子どもの心を、完全に分かりきることはできません。やはり、親子であっても、親と子で都合に違いがあるからです。一つに成れない悲しみ、別れていかなければならない悲しみを秘めているのが、この娑婆世界です。

それに対して、仏様のお心が感受していくお浄土の世界は、本当の意味で一つに成れる世界です。仏様の命を賜った人は、我執を離れて仏様と全く同じ世界を感受していきます。親鸞聖人が、最晩年に有阿弥陀仏という名の年下のお弟子に宛てたお手紙が残っています。そこには、次のようにあります。

「この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」

私、親鸞は、すっかり年老いてしまいました。あなたに先立って往生させていただくことでしょう。お浄土で、あなたのことを必ず必ずお待ちしております。という意味のお言葉です。親鸞聖人は、最晩年になって、お浄土でまた会えることを、微塵も疑っておられません。また会いましょう、お浄土でお待ちしてます、と安心した中で、この娑婆世界を去っていく姿が、浄土真宗の念仏者の死に様なのでしょう。

私の都合で描き出されているこの娑婆世界こそ、夢幻のようなものです。その人の都合がなくなれば消えていくのですから。夢幻のようなものを本物と思い込み、消えていくようなものにしがみついていく、これこそ、凡夫の悲しさでしょう。阿弥陀如来の願いの力によって、私たちは、みんなお浄土に生まれていくのです。親鸞聖人も先立ったあの人達も、みんなお浄土でお待ちです。そして、今度は、娑婆世界での愛憎を超えて、本当に一つになってゆけるのです。大切にお聴聞させていただきましょう。

2017年2月1日

本物の御利益をいただける味わい深い一年にさせていただきましょう。

明けまして、おめでとうございます。今年も、御門徒の皆様と共にお念仏に薫る温かい日々を大切に過ごさせていただきたいと思います。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

さて、日本のお正月の代表的な風景というと、いくつか挙げられますが、その一つに初詣の風景があります。毎年、お正月を迎えますと、全国の有名な神社では、初詣に参拝する人々で溢れかえります。これは、何百年も続く、日本独特の風景でしょう。各々が、今年一年、幸せに過ごせるように、神様からご利益をいただきにお参りされるのが初詣の意味です。

そもそも、ご利益を説かない宗教というのはあり得ません。何も得るものがない教えというのは、教えとして意味をなさないからです。親鸞聖人も様々なお書物の各所で、浄土真宗の御利益についてお説きになっておられます。しかし、それは、私達が、お正月に神社にいただきに参る御利益とは、少し趣が違うようです。

先日、ある御門徒さんから、次のようなお話を聞かせていただきました。

「主人も姑も見送って、今は一人ですが、地区の役や孫の世話で、毎日忙しくさせていただいています。今も昔も思い通りにいかないことばかりですが、お寺でご法話をお聴聞させていただいているおかげで、しんどいことも有難いなと思わせていただけています。いつも如来様がいらしゃって、この人生の先にはお浄土があって、そう聞かせていただく中で過ごしてますと、毎日、色んな喜びがありますよ。一人になりましたが、毎日、何か明るい感じがしています。私、これが、浄土真宗の御利益なんじゃないかと思っているんです。」

 本当の御利益とは、なんでしょうか。私達が求める御利益は、私の思い通りに成ることを御利益として考えているように思います。神社にお願いに行くのは、無病息災や恋愛成就、受験等の必勝祈願が多いのではないでしょうか。それらは、いずれも、この私の思い通りに事が進むことを願うものばかりです。確かに、病気に罹らずに一年を終えることや様々な災いが収まる、思い通りに受験に合格することは、大きな喜びをもたらすものです。思い通りに事が進んでいくことは、幸せなことでしょう。しかし、問題は、その喜びは、束の間のことだということです。一生、病気に罹らず災いにも襲われない人はいません。必ず最後には、最大の災いである死というものが、どんな人にも平等に訪れてくるのです。また、勝ち続ける人もいないのです。挫折や失敗を繰り返して、人は、多くのことを学んでいくのではないでしょうか。束の間の消えていく喜びは、本物の喜びではありません。束の間の喜びは、やがて愚痴に変わっていきます。せっかく頂いた掛け替えのない人生を愚痴で終わらしていくことは、本当にもったいないことです。

仏教が説く御利益は、世間的な損得勘定では量ることのできない本物の御利益です。それは、思い通りにはなってゆかない人生を、そのまま有り難いものとして喜んでゆける御利益です。お寺に参って如来様のお心を聞かせていただいても、相変わらず思いがけない病気に罹ったり、ひどく落ち込まされる災いに襲われたりします。どんなことをしても、私を中心に地球が回らない限り、すべてが思い通りにいくことはあり得ないことです。大切なのは、思い通りにいかない悲しみや苦しみをどうかして避けようとすることではなく、どのようにして受け入れていくかではないでしょうか。

親鸞聖人は、「この如来、十方微塵世界にみちみちたまへる」とお示しくださっています。この私の人生の至る所に阿弥陀如来様は、色んな姿でもって満ち満ちてくださっているという意味です。思い通りにならない悲しみや苦しみの出来事の上にも、お慈悲の如来様は、満ち満ちてくださっているのです。私には、悲しい出来事も、お慈悲の如来様からすれば、私にとって大切な意味を持つものなのかも知れません。如来様の一途な慈愛の中で、どんなことも、私の掛け替えのないお浄土への道のりとして、大切に味わい、力強く前を向いて歩んで行ける、そんな間違いのない道を与えられていくのが、浄土真宗の御利益でしょう。本物の御利益をいただける味わい深い一年にさせていただきましょう。

 

2017年1月1日

センテナリアン

今年も残すところ、後一ヶ月となりました。一年があっという間に過ぎていきます。人生というのは、夢幻のような、あっという間に過ぎる時間の積み重ねです。誰もが、後百年も生きることは出来ません。まもなく、この世界を去っていかなければならないのです。しかし、仏様は、儚い人生の中にこそ、尊い意味があることを教えてくださいます。

先日、NHKスペシャルで「百歳の世界」というドキュメンタリー番組が放映されていました。世界には、百歳を超えてもなお、現役で元気に働き続け、若い方々と何ら変わらない生活スタイルを維持したまま元気に過ごし続ける方々がいらっしゃいます。そういう方々を、学術用語で「センテナリアン」というそうです。そして、今、世界中でこのセンテナリアンの研究が、目覚ましく進んでいるそうです。NHKスペシャルでは、世界中のセンテナリアンの方々の日常生活が紹介されていましたが、驚くべき様子のものばかりでした。例えば、イタリアの106歳の男性は、今でも、現役の理容師さんです。毎日、真っ赤なスポーツカーを運転して仕事場まで出勤されます。106歳とは、とても思えないハサミさばきで、見事にお客さんの髪の毛を切っていきます。手が震えるということはありません。しかも、一日中、立ち仕事なのです。インタビュアーが、男性に対して、「老眼鏡をかけなくても大丈夫なんですか?」と尋ねると「あんなのは、年寄りがするもんだよ」と答えておられたのが、とても印象的でした。

NHKスペシャルでは、センテナリアンと一般の人との違いが、どこにあるのかを、最新の研究を元に検証を進めていました。これまで、人の寿命は、遺伝によるところが大きいと考えられていたそうですが、最新の研究によると、寿命と遺伝との関係は、ほとんどないに等しいということが分かってきているそうです。センテナリアンの方々と一般の方々との決定的な違いは、慢性炎症と呼ばれる数値が、極端に低いことだそうです。体というのは、慢性的に炎症を起こすことによって、老化が進んでいきます。食生活をはじめとした様々なライフスタイルによって、この慢性炎症が、極端に低く抑えられているのが、センテナリアンの特徴だそうです。

その中でも、特に興味深かったのが、心の問題です。ストレスは、もちろん慢性炎症を増進させる要因ですが、それよりも興味深かったのは、欲望を満たすことで満足感を得ようとする心の状態が、慢性炎症を増進させるとされていることでした。センテナリアンの方々は、一概に、自分が楽しむことよりも、他人を楽しませることを常に求め、他人が喜ぶことで満足感を得ている人達だそうです。また、100歳以上のセンテナリアンの方々に「100年以上生きてこられて、今までで一番幸せだった瞬間は、いつでしたか?」と質問を投げかけると、どの方々も「今が一番幸せ」と答えるのだそうです。センテナリアンの方々も、永遠に生き続けることはできません。そう遠くない先に命終えていかれることでしょう。長生きすることだけが、人生を豊かにするわけではありませんが、どれほど長くても百数十年の儚い人生を、どのように生きていくべきであるのかを、改めて考えさせられるものでした。

センテナリアンと呼ばれる方々は、結果的に、誰よりも、自分に恵まれた掛け替えのない人生を大切に生きることができています。長生きして楽しみたいという方ではなく、今の一瞬を心から喜び、人の喜びを満足感に変えていく人が、自分を大切に出来ているという結果は、まるで仏教の教えそのもののように聞こえました。自分の楽しみばかりを貪る生き方が、自分自身を苦しめる結果を招くというのは、2500年前にすでにお釈迦様が、お説きくださっていることです。また、無常の中で、今を喜べることの大切さを教えてくださっているのも、仏教です。結局、仏様が教えてくださっていることは、当たり前に正しいことなのではないでしょうか。

今年が残り少ないように、私の人生も、それほど多くは残っていません。今一度、楽しみを貪ろうとする自分の生き方を見つめ直していくことの大切さ、そして、仏様のみ教えを聞く場所であるお寺にお参りすることの大切さを考えてみましょう。

2016年12月1日

伝灯奉告法要の団体参拝に参加して

先日、山口南組主催の伝灯奉告法要の団体参拝に参加してまいりました。山口南組は、防府の台道から小郡、嘉川、秋穂地域にある浄土真宗本願寺派の寺院、十四ヶ寺で組織されています。山口南組十四ケ寺全体で、一四六名のご参加でした。正法寺からは、二十八名がご参加くださいました。伝灯奉告法要というのは、西本願寺の住職が交代されることを仏前に奉告し、み教えの灯が次代に引き継がれ伝えられていくことを大切に味わう法要です。西本願寺の住職は、全国に約一万一千ヶ寺ある浄土真宗本願寺派の寺院と一千万人とも言われる御門徒の方々を束ねる御門主でもあります。この度、引き継がれた専如門主は、親鸞聖人から数えて二十五代目になります。本願寺の住職は、親鸞聖人の血脈を引く、親鸞聖人の直系の子孫が就任してきました。

この度の、伝灯奉告法要では、新しく就任される専如門主のご家族も、ご一緒にお出ましになられ、お言葉を述べられました。今年、三十九歳になられた専如門主は、一つ年上の奥様(お裏方様)と五歳になるご長男、敬(たかし)様、一歳になるご長女の顕子(あきこ)様の四人家族です。御門主とお裏方様に抱かれた幼いお二人のお子様が、参拝者の方々に対して、笑顔を振りまかれたり、可愛いお声でご挨拶をされたりする姿は、とても微笑ましいものでした。全国から参拝された御門徒の方々も、その微笑ましいご家族の姿に、思わず笑みがこぼれ、お御堂の中は、大変温かい雰囲気に包まれていました。

ところで、このように仏教教団のトップが、仏前で家族とともに公然と振る舞うことは、浄土真宗だけのことです。他の仏教教団では、有り得ない光景といってよいでしょう。例えば、日本を代表する仏教教団である天台宗や曹洞宗、また、同じお念仏を称える浄土宗であっても、その教団を代表する門主に当たる方が、公然と家族で仏前に出ることは、考えられないことです。

今から十数年前、NHKで当時の曹洞宗のトップ、宮崎奕保(みやざきえきほ)貫主を特集した「永平寺 一〇四歳の禅師」と題したドキュメンタリー番組が放映されたことがありました。曹洞宗は、福井県にある永平寺を本山とする教団で、開祖は、道元禅師です。一般的には、禅宗とも呼ばれますが、教えの内容は、ひたすら座禅をすることを通して悟りを開くことを目指すもので、非常に厳しい生き方が求められます。その教団のトップである貫主に就任されていたのが、宮崎奕保という現代に生きる高僧のお一人でした。当時、一〇四歳です。一〇四歳という高齢でありながら、永平寺から出ることなく、若い僧侶の方々と一緒に、一日中、厳しい修行に打ち込んでおられる様子が、NHKで特集されたのです。宮崎貫主は、生涯独身を貫かれておられます。また、僧侶になられてからは、一口もお肉類を口にされていないとのことでした。インタビューに答えられる一言一言が、仏様のように柔らかく深みをもっておられました。これが、曹洞宗という仏教教団を代表する人の姿です。浄土真宗の門主の姿とは、かなり異なります。

しかし、ご家族と一緒に阿弥陀如来の前で笑顔で振る舞われる、あの若い御門主のお姿の上に、親鸞聖人が開かれた浄土真宗という仏教の力強さを味わうことができるのです。曹洞宗の宮崎貫主は、誰からも敬われる本物の高僧です。聖なる道を地で行くことのできる類まれな精神力と体力をお持ちです。しかし、私たちは、宮崎貫主を敬うことはできますが、同じ道を同じように歩みなさいと言われても、それは難しいのではないでしょうか。どれほど尊い教えであっても、それを実践し、自分自身の生き方にできなければ、絵に描いた餅と一緒です。生死を超える道に、「しょうがない」は通じません。出来なければ、悟りも開けないのです。

親鸞聖人が歩まれた道は、世俗の中で家族を持ち、仕事を持ち、煩悩にまみれた人間関係の中に開かれていく仏道なのです。家族をもち、世俗の中で生きる限り、悲しいこともあり、悩みは尽きず、やがてそんな中で死を迎えていきます。それでも、生まれてきて良かったと、悲しみも死んでいくことも受け入れていける道が浄土真宗のお念仏の仏道です。普通の人にも、厳しい修行者と同じ尊い悟りの世界が恵まれていく道があるのです。深いご縁で結ばれた人々と共に、大切にお念仏を申す毎日を送らせていただきましょう。

2016年11月1日

無数の関わり合いの中で、私というものは、あらしめられている。

先日、三十歳代~四十歳代の男性の方々と、お寺で懇親会を開いた時のことです。働き盛りの方々ばかりの中、自然と話題は、仕事の話になりました。それぞれに、色んな苦労があることを、愚痴をこぼすように話されていました。しかし、決して暗い雰囲気ではなく、笑いが絶えずこぼれるような懇親会でした。その時、三十歳代の男性の方が、冗談めかした口調で、次のようにおっしゃったことが印象的でした。

「しんどいことばっかりですけど、お念仏申しながら、がんばるしかないですね。」

 若い方々にも、お寺とのご縁を結んでほしいとの思いで開いた懇親会でしたが、正直、仏法の話題が上がることは期待していませんでした。おそらくご本人も、それほど深い意味を込めて口にした言葉ではなかったと思います。しかし、それが、冗談でも口にできることが有り難いのです。

先日、九月三日(土)に第三十四回の公開講演会が開かれ、ルーマニア人布教使のコソフレット・アテナ・ガブリエラ先生をお招きしました。アテナ先生のお話の中で、印象的だったのが、初めて日本社会に触れた時の感想でした。ルーマニアやヨーロッパの国々では、雑談の中で、お互いに何の宗教を持っているかが話題になるそうです。一方で、日本人は、その人が何の血液型かが常に話題になるといいます。しかし、ほとんどの人が無宗教であることを主張し、宗教に無関心でありながら、多くの人が、食事の時に手を合わせて頭を下げている姿や「おかげさまで」という謎の柔らかい言葉を使ったりしているのが不思議だったそうです。それらの姿が、非常に宗教的な姿に見えてしかたがなかったといいます。その後、仏教に出遇い、仏教のことを学んでいく中で、日本人のあの宗教的に見える姿は、仏教に育てられた姿であったことを知ったそうです。

キリスト教徒は、食事を用意してくれた人に感謝することはあっても、食事そのものに感謝するという発想がないそうです。しかし、仏教は、人間の食べ物になる命であっても、命には、平等に尊い価値があることを説きます。また、キリスト教では、縁ということを説きません。神が起こした奇跡として神に感謝していきます。しかし、仏教は、色んな繋がり、色んな働きの中で、今の自分があることを説きます。「おかげさまで」という一言に、その縁というものを感じていく心が込められています。仏教というものを全く意識していない中で、自然と仏教的な感覚が身についているのが、外国人から見た、日本人の不思議なところだそうです。

親鸞聖人の有名なお言葉の中に、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ、、、」というものがあります。たまたま仏法に出遇い、仏様のみ教えを聞き喜び、お念仏を申すような身になったならば、はるか遠い昔から、私を育ててくださった尊い因縁があったことを慶びなさい。という意味です。私一人の力で、物事は、成しえていくのではありません。まして、運が良かったからでもありません。多くの計り知れない心や出来事が、関わり合い、重なり合い、実現しているのです。そして、また、その実現したことも、多くの出来事に関わって、別の何かを実現させていくのです。多くの網の目のような無数の関わり合いの中で、私というものは、あらしめられているというのが、仏様のみ教えです。

そうしますと、私の人生には、目に見えない様々な心、様々な物事が関わっているということです。私にとって良いことも、私にとって悪いことも、無数の関わり合いの中で起こってきたことならば、有り難いことではないでしょうか。まして、地獄行きの凡夫でしかない私が、仏法を聞き、喜ぶようになったならば、それは、多くの心や出来事が、私をここまで育ててくれたとしか言いようがありません。そんな不思議な働きを、阿弥陀如来のお慈悲の心の上に大切に味わってきたのが、浄土真宗の伝統でしょう。冗談でも、仏法のことが口にできる、意識していなくても、仏法的な考えや行動ができている、というのは、本当に有り難いことです。

無数の心とその働きが、私を守り育ててくれています。今があることの不思議を受け止め、いただいたご縁を大切に味わってゆける毎日でありたいものです。

2016年10月1日

磁石は、阿弥陀如来です。鉄くずは、凡夫である私です。

先日、ある御門徒のお家で開かれた家庭法座で、お参りくださった方から、次のようなご相談をいただきました。

「ご院家さん、私は、こうやってご法話を聞かせていただくことが、本当に有り難いことだなと思っているんですが、心残りなのは、息子のことなんです。息子は、東京の方におりますが、盆とか正月には、必ず帰ってきてくれます。帰ってきた時には、まずお仏壇の前に座って手を合わせるように言っています。息子は、その通りにしてはくれるんですが、如来様のお心を聞こうとか、み教えを学ぼうとか、そういう具体的な姿勢が見られないんです。ただ、ご先祖を大切にするぐらいにしか思ってないようです。どのようにしたら、息子は、お念仏のお心を感じ取ってくれるんでしょうか?」

 なかなか難しいご相談でしたが、住職からは、次のような趣旨のお話しをさせていただきました。

 「親子といえども、自分以外の者に、如来様を信じさせることはできないと思います。その人自身が、自分の人生の中で如来様に出遇い、味わいを深めていくしかないと思います。でも、お母さんや身近な人にお念仏を喜んでいる人がいるかどうかは、とても重要なことだと思います。結局、ご自身が、本当にお念仏を喜ぶ身にさせていただくことしかないのかも知れませんね。」

 それでも、心配そうな相談者の方を見た他の参詣者の方が、その方を励ますように次のようなお話しをしてくださいました。

「大丈夫ですよ。息子さん、いつかきっと感じ取ってくれると思いますよ。私の母も、如来様を本当に大切にした人で、家でいつもお念仏を称えていました。家の中で歩きながらお念仏をしている母を見て、若いときは、その意味が全く分からずに、変なことをしているな、ぐらいの気持ちだったと思います。それが、今、私も、家でお仏壇の前を通りすぎる時に、意識せずに自然とお念仏しているんです。この間、それに気づいて、私、母と同じことしてるわと思って、一人で可笑しくなったんですよ。そんなに心配されなくても、息子さんにもきっと伝わっていくんじゃないですか。」

 浄土真宗の伝統が、脈々と伝わってきた具体的な姿を教えていただいたようで、大変有り難いご縁をいただいたことでした。

親鸞聖人の主著に『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という大変難解な書物があります。その中に、阿弥陀如来の救いの働きを磁石に譬えられている箇所があります。磁石というのは、周りにある鉄くずを引き付けていきます。鉄くず自身に、磁石に近づく力はありません。磁石が、鉄くずを引き付けるのです。引き付けられた鉄くずは、鉄くずのまんま、今度は、別の鉄くずを引き付ける働きをします。引き付けられた鉄くずは、磁石そのものに変わるわけではありませんが、磁石と同じ働きを持つ鉄くずに変化するのです。

磁石は、阿弥陀如来です。鉄くずは、凡夫である私です。凡夫である私は、自らの力で悟りに近づく力はありません。これは、努力が足りないということではなく、本来、鉄くずが動く力を持っていないように、凡夫も悟りに近づく性質を持っていないのです。しかし、悟りに近づくはずのない凡夫が、近づくという不思議が起こります。それは、他でもない阿弥陀如来の働きです。磁石が鉄くずを引き付けるように、阿弥陀如来が凡夫を動かすのです。自己中心の妄念の中に生きる凡夫が、阿弥陀如来の慈悲の心に礼拝するようになる、これは、阿弥陀如来の救いの働きなのです。そして、阿弥陀如来に引き付けられた凡夫は、磁石に引き付けられた鉄くずのように、周りにいる凡夫も、阿弥陀如来に引き付けていくのです。

阿弥陀如来の生きとし生けるものにかけられた純粋な願いは、大きな救いの働きとなって躍動し続けていきます。次々と悟りに近づくはずのない命が、引き付けられていく、そんな不思議な働きの中に、今の私もあるのです。周りの人が心配になるのも、私が、大きな救いの働きの中にある証拠です。不思議な働きの中に生かされる身の尊さを素直に喜ばせていただきましょう。

2016年9月1日

幸福とは

先日、ある御門徒のご法事の折、お斎の席で、次のようなお話をご親戚の方とさせていただきました。

ご親戚
「私も、今年の三月で、完全に仕事の方を辞めまして、今は、色々な趣味を楽しみながら過ごしています。」
住職
「どんな趣味をお持ちなんですか?」
ご親戚
「色々やりますよ。スポーツは、バトミントンをやっていますし、将棋や囲碁にもはまっています。魚釣りも楽しいですね。」
住職
「バトミントンと将棋ですか。晴れても、雨が降っても大丈夫ですね。」
ご親戚
「はい。でも、楽しいのですが、いつもご法話で話される生老病死の不安というのを、私も歳を重ねるごとに感じてきますね。最近、幸福って何なのかなって思うことがあるんです。仏教でも、幸福ということを説くのですか?」
住職
「もちろんです。でも、一般的に人が求める幸福を仏教は否定します。それで、仏教が幸福を説くイメージがないのかもしれませんね。」

 人は誰でも、幸福でありたいと願っています。おそらく、それは人だけではないでしょう。命あるものは皆、幸福でありたいと願っているのではないでしょうか。幸福の価値観は、立場によって様々でしょう。しかし、共通しているのは、その人の都合や望んでいることが、そのまま満たされるということではないでしょうか。思い通りに自分の願望が満たされていく、そんな楽園を私たちは、求めているのでしょう。しかし、私達が盲目的に求める楽園を真っ向から否定されたのが、お釈迦様なのです。

親鸞聖人のみ教えを世に正しく広められ、中興の上人と讃えられる本願寺第八代御門主の蓮如上人が遺されたお言葉に次のようなものがあります。

「されば極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候ふ。」

 極楽という世界が、自分の願望が満たされていく楽園だと受け止めて、その世界に生まれたいと望むような人は、仏には決して成れないというのです。「楽しみが極まる」と書いて、極楽です。しかし、仏教で説く楽しみは、自分の願望を満たすことではありません。それは、「遊ぶ」という言葉でも表されていきます。私達にとって、「遊ぶ」というのは、自分の趣味を楽しむというように、自分の願望を満たすためのひと時を意味しています。しかし、仏教で使われる「遊ぶ」という言葉の意味は、少し異なります。親鸞聖人が著された『教行信証』には、「遊ぶ」という言葉が、よく出てきます。その一つをご紹介しましょう。

「煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の園に入りて応化を示すといへり。」

 これは、曇鸞大師という高僧のお言葉を引用されたものです。「煩悩の林に遊んで・・・」というのは、人々の悲しみや苦しみを背負い、人々の幸せを実現していくことを表現しています。自分の欲望を満たすのではなく、逆に、人々の悲しみを背負っていくことを「遊ぶ」と表現しているのです。仏教の楽しみというのは、人々の悲しみや苦しみを自由自在に背負える身になることをいうのです。

自分の欲望を満たそうと貪る先には、自分も他人も傷ついていく世界しか訪れません。なぜなら、それぞれに望むものは異なり、傷つけ合わないと、手に入れることはできないからです。邪魔者は、消えてもらわなければならないというのが、欲望を貪る者のお互いの言い分でしょう。また、人の欲望には限りがありません。

本当の幸せというのは、愛する者があって、初めて実現することなのではないでしょうか。自分以外の愛する者の為に、悲しみ喜んでいける人は、幸せな人だと思います。そして、自分の都合を一切離れて、あらゆる生きとし生ける者を愛することのできる存在が、仏様なのです。仏様こそ、本当の幸せの中に生き続ける存在であり、その幸せの中から、私達に語りかけてくださるのです。その言葉を聞かせていただく中に、本当の幸せが何であるのかを知らせていただくのでしょう。

2016年8月1日

善人と悪人という言葉

先日、ある御門徒のご法事の折、次のような会話のやり取りがありました。

当主
「ご住職、ご存知でしたか?NHKの2チャンネルの番組で、『100分で名著』というのがあるんですが、先日、その番組で『歎異抄』が取り上げられていたんですよ。私、その番組を全部録画して、毎日、仕事に行く車の中で聞いているんですよ。」
住職
「知ってますよ。私も見ていました。あの解説をしておられた釈先生は、正法寺にもお越しいただいたことがあるんですよ。一般の方にも親しみやすいように、お話しされていましたね。」
当主
「善人よりも悪人が救われるということの意味を、私は、完全に誤解してました。あんな意味の言葉だとは、思いもしませんでした。」
親戚
「どんな意味なんですか?」
当主
「悪人というのは、特別に悪いことをした人のことではなくて、一般の人のことを言うらしいですよ。」
住職
「一般の人というか、親鸞聖人は、悪人という言葉をご自分のこととして受け止めておられるんですよ。」
親戚
「そうすると、自分以外は善人ということですか?私でも救われるんだから、他の人も必ず救われるということですね。」
住職
「それも、間違いではないですが、、、」

 善人と悪人という言葉は、私たちの日常生活の中で頻繁に使われています。善悪の判断こそが、社会生活を営む上で最も大切なこととも言えます。子どもを育てる教育の現場でも、何が善いことであり、何が悪いことであるのか、その区別をはっきりと子どもに教えていかなければ、教育ということにはなりません。しかし、私達が、普段使う善悪の区別は、社会生活を営む上での区別にすぎません。つまり、みんなが平和で傷つかずに営む社会生活にとって、それを乱すような行いは、悪として裁かれ、刑事罰が与えられていきます。逆に、平和な社会生活を支え助長していくような行いは、善とされ褒賞が与えられていきます。人を殺すような人は、平和な社会生活を乱していく危険人物ですから、当然、悪人として裁かれていきます。しかし、一方で戦争中は、日本人の平和な社会生活を維持するために、敵国は邪魔な存在であり、悪となります。そうすると、悪である敵国の兵を殺すことは善なる行為とみなされ、褒賞が与えられていくのです。人を殺すという同じ行為が、その時の都合によって、善にもなり悪にもなるのが、人間の判断なのです。

仏教で問題にする善悪は、このようなものではありません。善なる行いというのは、仏教では、人や様々な命あるものを安らかに癒していく行いです。反対に、悪なる行いというのは、人や様々な命あるものを傷つけ苦しみを与えていく行いです。これは、一般的な道徳の上でも、同じことでしょう。しかし、自分自身が、悪を慎み善を行っていく正しい生き方が出来ているかどうかが、仏教では問われていくのです。親鸞聖人の上で、善人悪人の問題が大きく扱われているのは、それだけ親鸞聖人ご自身が、仏様の教えに素直に順い、正しく生きようと努めておられたからなのです。

親鸞聖人は、自分には、本当の善悪が何であるのかを判断できないとおっしゃいます。その上で、ご自身のことを悪人だとおっしゃるのです。それは、ご自身が、あらゆる命を区別せずに、深く慈しみ愛していく阿弥陀如来の広大なお心に貫かれたからです。阿弥陀如来の無条件の慈愛の前では、自分の都合に振り回される私は、恥ずかしい悪人です。親鸞聖人が、ご自身のことを悪人とおっしゃるのは、阿弥陀如来によって知らされた自分の姿のことなのです。親鸞聖人は、他人を指して善人だ悪人だとおっしゃることはありません。

善人よりも悪人が救われるというのも、仏様のみ教えを聞いて、正しく生きようと努める人の前に開かれる世界であって、興味本位に仏教の知識だけ得ようとする人には、理解しがたい理屈でしょう。仏教は、自分の上で味わってこそ、本当の意味が分かるのです。

2016年7月1日