「縁起」、周りに感謝の心を持ち、周りの者に優しい心を向けていく

以前、ある御門徒のご法事でのことです。四十歳代の男性の方が、次のようなことをお話しくださったことがありました。

 「父が亡くなるまで、こんなこと、あまり思ったことがないんですが、生かされているという感覚って、とても大事ですね。私も、仏教のことが、それほど分かってないですが、煩悩だけで生きるというのは、つまらない感じがするんです。周りのものに感謝できる心って、とても大切だなと、父が亡くなってから、特に、そんなことを思うようになりました。」

お話しを聞かせていただきながら、仏教的な素晴らしい感性をお持ちの方だなと感心させていただいたことでした。

仏教の根本的な思想に縁起(えんぎ)というものがあります。日常会話では、「縁起が悪い」とか「縁起でもない」など、悪い意味で使われることも多い言葉ですが、実は、この言葉が、仏教の最も大切な内容を表しているのです。というのも、お釈迦様の悟りの内容そのものを表すものだからです。仏様というのは、何が私達と違うのかというと、それは、この縁起というものの道理を悟っているかどうかにあるのです。

仏様の悟りの内容ですから、悟っていない私達には、実際のところは分かりません。しかし、仏様の教えの言葉は、悟っていない者の迷いを破っていくために紡ぎだされたものです。私たちは、仏様のように自ら悟ることは出来ませんが、仏様の教えの言葉を素直に聞いていくと、自分の誤った見方に気づかされたり、今まで気づかなかった尊い事柄に感動させられたりする中で、少しずつ、仏様の世界に近づいていけるのだと思います。

「縁起」というのは、「縁って起こる」という意味ですが、あらゆるものは、あらゆる関係性の中で成り立っていることを教えているものです。これは、「支えあって生きていきましょう」と支えあうことの大切さを教えるものではありません。「現実に今、あなたは、あらゆるものと支えあって生きているのですよ」と、現実の私の有り方を教えるものなのです。

現代は、個人の権利をとても大切にするようになりました。あらゆる人の人権が保障されるようになったことは、人を大切にできる良き時代になったともいえます。しかし、その反面、あまりに個人の権利をお互いに主張し過ぎるがために、人と人との繋がりが、だんだん希薄になってきているようにも思います。何百万人という人口がある大都会で生活しながら、孤独感を深める人が多くいるというのも、そのことを顕著に表している現実です。

仏教で苦しみの原因とされる煩悩というのは、自分の都合を最優先にして生きようとする心です。自分の我欲を満たすことに必死になっていくと、自分以外のものが、敵になっていきます。自分の都合を邪魔する可能性のあるものは、みんな敵です。実は、それが地獄の鬼の正体なのです。自分の都合を最優先にして、我欲を貪るような生き方をする人は、周りに鬼を増やしていき、孤独感を深め、苦しみの中に沈んでいくのです。その苦しみの深さと、我欲を貪ることの恐ろしさを教え、戒めるために、仏教では、地獄というものが説かれているのです。煩悩だけで生きる者の前には、厳然と地獄の世界が広がっていきます。

それに対して、縁起の道理を悟っていく世界は、自分がどれほどの人や命あるものに支えられ、生かされてあるのかを実感していく世界です。あらゆるものとの繋がりの中で、自分の存在を確認していきます。「あなたのおかげで、私がある」と感動していく世界です。そこには、「ありがとう」という言葉が溢れていきます。周りに仏様や菩薩様の化身が増えていき、自分もまた、周りのもののために尽くそうという心が芽生えてきます。今の自分が、どれほどの善意によって支えられてあるのか、どれほど幸せ者であるのか、そのことを実感して生きていくことを、正しい生き方と教えていくのが、本来の仏教なのです。

この仏教の根本思想は、「おかげさま」という言葉にも表れているように、日本人の精神文化の中に溶け込んでいるものです。周りに感謝の心を持ち、周りの者に優しい心を向けていく、そんな昔から当たり前のように大切にしてきたことを、改めて、大切にしていきたいですね。

2016年6月1日

ご法事のご縁を頂くこと

先日、ある御門徒の50回忌のご法事でのことです。御当主から、次のようなご挨拶がございました。

 「皆様、本日は、ようこそお参りくださいました。親の50回忌を勤めるというのは、世間では、不幸なことといいます。それは、おそらく、早くに親を亡くして苦労の多い人生を送ったということで、そう言うのだろうと思います。しかし、今日、私は、父親の50回忌のご縁を頂けたことは、幸せなことだと思っております。九十歳を超えるこの歳まで生かさせていただいて、父親の50回忌のご縁を頂けたことは、如来様のお手回しとしか思えません。父親と再び出会える世界は、お念仏を置いて他にありません。今日、私は、このご縁を頂いて、ますます御恩報謝に努めにゃならんと思いました。本日は、ありがとうございました。」

法味溢れる、大変ありがたいご挨拶でした。このご挨拶の中に、浄土真宗のみ教えの大切な味わいが、たくさん込められています。

まず、ご法事のご縁を頂くことは、それが、どんなご法事のご縁であっても、幸せで有り難いものだということです。法事というのは、故人のために勤めるものではなく、故人のおかげで勤めさせていただくものだからです。法に遇うご縁が、法事です。そして、そのご縁は、故人が尊いお導きとなって結んでくださったものです。そうしますと、法事というのは、故人からのプレゼントとも味わうことができます。私のことを大切に思ってくれる故人が、仏法という最高のプレゼントを贈ってくださったのです。法事のご縁に遇えるというのは、本当に幸せで有り難いことなのです。

そして、もう一つは、如来様のお手回しの中で自分の人生が営まれているということです。人生というのは、生まれることから死ぬことまで、私の思いのままには決してならないものです。しかし、私は、思いのままの人生を望み求めていきます。ここに苦悩の原因があり、人生を虚しくする根本があると教えるのが、すべての仏教に共通する教えなのです。思いのままにならなかった人生を、私たちは、本当に喜ぶことができるでしょうか。後悔と虚しさを抱きながら終わっていく人生ほど、惨めなものはありません。どんな人生であっても、この人生は、私にしか生きることのできない掛け替えのないものです。その替え替えのない私だけの人生を、如来様は、慈しみ愛してくださいます。私の人生には、その慈愛に満ちた如来様の働きが満ち満ちているのです。私のことを慈しみ愛してやまない働きがあることを聞かせていただくとき、人生の様々な出来事は、すべて如来様の温かい眼差しの中でのことであることに心が開かれていきます。思いのままにならない苦労の多かった人生も、如来様の慈愛の賜物であり、私を大切に育てるためのお手回しだったのです。その不思議に素直に感動できる心を信心ともいうのです。

そして、最後は、人生の目的は、御恩報謝の中にあるということです。私たちは、皆、何のために生きているのでしょうか。生きる意味と目的を、はっきりと確認している方が、どれほどいらっしゃるでしょうか。多くの方は、自分の望みをかなえるため、働くため、楽しむため、などなど様々な生きがいを自分なりに見つけて人生を有意義に生きようとします。しかし、それらが出来なくなったとき、人は、生きる意味がなくなってしまうのでしょうか。生きる価値のない人間など、世界中、どこにもいないのです。どんな人間でも生きる価値があり、そのままで認められていく世界があるのです。御恩報謝というのは、自分が愛され慈しまれている深い感動に抱かれながら、自分を一途に愛してくれるもののために生きていくということです。如来様のお慈悲に感動できる者は、如来様のお慈悲のために生きようとする人生が開かれてきます。阿弥陀如来様が、私に願われる通りの人生を、正しく歩もうと慎んでいきます。仰せを聞き、教えを素直に聞き、如来様のお慈悲に傷がつかないように、誰もがお慈悲に包まれていくような、周りの命を癒していくような日々を心がけていくのです。

何歳になっても、感動と喜びの中で、一つ一つの仏事のご縁を大切にできる人生でありたいものです。

2016年5月1日

可哀そうなものになるために、今まで生きてきたんと違いますよね

毎月、お寺の掲示板に二つの法語を掲示させていただいています。今月は、大谷光真前門主と、昨年ご往生された梯実円和上のお言葉を掲示しています。
大谷光真前門主のお言葉は、次のものです。

「誰もが、いずれは老いていく。それもまた人間のつとめなのです。」

梯実円和上のお言葉は、次のものです。

「死んで可哀そうにというけれど、可哀そうなものになるために、今まで生きてきたんと違いますよね。」

 どちらのお言葉も、老いと死という避けることのできない人生の問題を、仏教者の立場からお示しくださったものです。世間では、老いるということと死ぬということは、人生にとってマイナスな事として捉えられています。テレビ番組では、毎日、健康番組が放映され、見た目を若く保っている芸能人が、あこがれの的として、もてはやされています。人間は、大昔から、不老不死の法を追及してきました。歴史上の有名な権力者たちが、様々な健康法を試していたことは、よく聞く話でしょう。

仏教の世界でも、不老不死の法を求めた有名な人物がいます。今から約一五〇〇年ほど前に中国で活躍された曇鸞大師(どんらんだいし)という方です。親鸞聖人は、この曇鸞大師を、ご自身のお名前に一字を用いるほど尊敬されていました。

曇鸞大師が、まだ、若かったころ、『大集経』という大変難解で膨大な量の経典を注釈しようと思い立たれましたが、途中で病気になられ、注釈を成し遂げるために、不老不死の法を求められたといわれています。当時、道教の権威として有名であった陶隠居(とういんきょ)という師を訪ね、不老不死の術とその術が説かれた仙経を授けられたといいます。しかし、その帰り道、たまたま菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)という高僧に出くわします。仏教の高僧として有名だった菩提流支三蔵に曇鸞大師は、仏法の中に不老不死の仙術にまさるものがあるのかどうかを尋ねます。すると、菩提流支三蔵は、大地に唾を吐いて、その質問の愚かなることを笑い、不老不死の法は、仏法にまさるものはないことを力説し、曇鸞大師に『仏説観無量寿経』一巻を授け、反省を促したといいます。曇鸞大師は、菩提流支三蔵の言葉に深く感動し、その場で仙経を焼き捨て、それ以来、浄土の教えに深く帰依されたことが伝えられています。

この曇鸞大師の説話は、大昔から人間が求めてやまなかった不老不死の法を超える道が、仏法の中に説かれてあることを教えるものです。お釈迦様が、お説きくださっているように、あらゆるものは留まることなく移り変わる無常の中に身を置いています。いかなるものも無常の道理から逃れることはできません。仏教が、教えているのは、無常に抗い逃げていく道ではなく、むしろ、その無常を受け入れ超えていく道なのです。世間では、無常に抗い逃げていくことを教えます。確かに、世間が教える方法で、老化を遅らせたり、健康を保つことはできるのでしょう。しかし、それは、問題を先送りにしているだけなのです。

老いていくことを、人間のつとめだといい、死んで可哀そうと受け止めることこそ可哀そうな生き方だと教えるのが仏教です。「つとめ」というのは、「責任をもってしなければならない」ということでしょう。老いという現実から目を背けるのではなく、老いと向き合い、豊かにその老いの現実を受け入れていくことが、人間のつとめなのです。老いていくことも、ありがたいこととして喜んでいける世界があるのです。また、死んでいくことを不幸なこととして、どこか他人事として「可哀そう」と口にすることも、人生を虚しくする生き方でしょう。誰もが、必ず死んでいくのです。梯和上がおっしゃるように、私は、可哀そうなものになるために生きているのでしょうか。死は、いつどんな形で訪れるのか分りません。私たちは、可哀そうなものになるような不気味な死を背負って生きるよりも、温かい仏様になっていくようなお浄土に包まれて生きる人生を歩まなければならないのです。老いることも死ぬことも、如来様のお心の中で味わえば、まったく異なる意味が開けてきます。やはり、仏法を大切に聞かせていただくことが、人間のつとめなのでしょう。

2016年4月1日

「お母さん」の愛情と「仏様」の愛情

先日、ある御門徒のご法事のお斎の席でのことです。少しお酒も入り、席が和んできた頃、お隣に座っておられた男性の方と、次のようなお話をさせていただきました。

男性
「御院家さん、私は、中学生の頃、川で溺れた同級生を飛び込んで助けたことがあるんですよ。」
住職
「すごい御経験をされていますね。」
男性
「今でもね、忘れられないんですが、助けられた後、その溺れていた子が、私に言った最初の言葉が、何なのか分かりますか?」
住職
「やっぱり、命を助けられたんですから、お礼の言葉じゃないんですか?すごく感謝されたでしょう。」
男性
「そう思われるでしょ。それが違うんですよ。人間ね、命のかかった時には、お礼の言葉なんか出ませんよ。その子は、助けられた時に『お母さ~ん』って叫んだんですよ。びっくりしました。私も、子どもの父親ですけどね、お母さんって、やっぱりすごいなと思いますよ。」

とてもうれしそうにお話してくださったのが、印象的でした。お話を聞かせていただいて、浄土真宗のお念仏のみ教えと繋がるところがあるなと思わせていただいたことでした。

なぜ、念仏を称えるという極めて易しい行いによって、重い罪業を抱えた人間が救われていくのでしょうか?私達人間の在り方は、お悟りを開いた仏様から見ますと、重い病気を抱えた重病人のような存在です。病状が重いほど、治療は難しく時間がかかるのは、当然のことでしょう。それ故に、仏教では、様々な難しい修行が、時間をかけて勧められているのです。それが、念仏を口に称えるという、誰にでもできる極めて単純な行いだけで、時間をかけずに重い病状が改善していくと教えているのが、浄土真宗という仏教なのです。約八〇〇年前、このお念仏のみ教えを、初めて公に説かれた法然聖人を、仏教の常識のある学僧の方々は、口をそろえて、そんなことはありえないと批判し、それがやがて、仏教史上に大きな傷を残す宗教弾圧へと広がっていくことになります。

しかし、当の法然聖人自身も、四十三歳まで、お念仏のみ教えが、どうしても納得できなかったといいます。それが、確信に変わったのは、阿弥陀如来の願いが、そうであったからでした。法然聖人は、阿弥陀如来が願われている通りに、ただ口にお念仏させていただきなさいと一途に教えられたのでした。その法然聖人の教えを受けた親鸞聖人は、さらに、その教えを進めて、「南無阿弥陀仏」という言葉そのものに、阿弥陀如来の願いが込められてあることを教えていかれます。私達が、念仏を称えることを、どこか遠くで願っているのが阿弥陀如来ではなくて、阿弥陀如来は、私達が称える「南無阿弥陀仏」という言葉になっておられ、言葉の仏様が阿弥陀如来であるとお説きくださったのです。親鸞聖人のお念仏は、一声一声に阿弥陀如来の慈愛が私に満ち満ちていくようなものだったのです。完全治癒が難しい重病人は、決して見捨てられる存在ではなく、むしろ阿弥陀如来様から愛され、決して見捨てることのできない存在だったのです。その事実を私に告げているのが、「南無阿弥陀仏」であるというのです。私が称えるという易しい行いによって救われるのではなく、仏様の慈愛によって救われていくのです。

言葉というのは、人を傷つけたり癒したりする力を持っています。「お母さん」という言葉は、子どものことを一途に想う母親の純粋な愛情が言葉となったものです。溺れていく中で、「お母さん」の名を呼ぶ子どもは、お母さんから愛されている子どもでしょう。しかし、人間境涯の愛情には限界があります。名を呼ばれながら、何もしてやれない母親の悲しみが人間にはあります。それに対して、仏様の愛情には限界はありません。たとえ死んでいく時であっても、決して一人にはさせないと呼んで下さるのが南無阿弥陀仏です。いつでもどこでも、仏様は言葉になって私に寄り添ってくださるのです。大切にお念仏させていただき、味わい深い毎日を過ごさせていただきましょう。

2016年3月1日

「お念仏でよかったですよ」の一言

先日、保育園の園長が集まる会合で、お二人の園長先生方の雑談に交わらせていただく機会がありました。A園長は、浄土真宗のお寺の御住職でもあります。それは、次のようなお話でした。

A園長
「私は、昔、病気をしているから、そろそろ引退のことを考えているんです。」
B園長
「あの病気の時は、私は、A先生は、もう死ぬんだろうなと思っていましたからね。大変でしたよね。」
住職「そんな大きな病気をされているんですか?」
A園長
「初めは、膀胱癌でね、膀胱は、全部が癌細胞のような状態でした。その後、肺にも癌の転移が見つかって、肺も、今は、片一方しか残っていません。だから、私は、声が小さいでしょう。」
住職
「ぜんぜん、知りませんでした。何年ぐらい前の事ですか?」
A園長
「もう十年以上前です。五十歳の時でね、娘は、まだ中学一年でしたし、自分が死んだら、どうなるんだろうかと随分悩みましたよ。でも、病気の状態からすると、助からないだろうなと自分でも思っていました。そうすると、今度は、死に方について、色々考えるようになるんですよ。最後に、無様な姿を家族には見せたくないなとかね。でも、考えれば考えるほど、不安に押しつぶされそうになるんですよ。」
B園長
「誰でもそうなりますよ。」

 その時、A園長が、住職の耳元に近づいて来られて、小さな声で「お念仏でよかったですよ」とおっしゃいました。その後、A園長と二人になった時に、改めて、その言葉の真意を聞かせていただいたのです。

A園長
「普段、仏法を聞かせていただいていても、いざ、自分のことになったら慌てますねぇ。死に様は、問わないと普段から聞かせていただいていても、やっぱり考えてしまいました。でも、ああなってみて実感しましたが、本当に何もできないんだなと思いました。お念仏で良かったと本当に思いましたよ。」

 浄土真宗中興の祖と讃えられる蓮如上人という方が、「後生の一大事」という言葉を使って、仏法をお説きくださっています。「後生の一大事」というのは、「自分というものは、死んだらどうなるのか」という問題です。それは、言い方を変えれば、「生まれ、生きて、死んでいく、自分というものは、いったいどんな意味をもった者か」という問題でもあります。誰もが、この一大事を抱えています。仏法を聞くというのは、この後生の一大事の解決のために聞かせていただくのだと、蓮如上人は、お説きくださるのです。

普段は、誰もが、少なからず、今まで生きてきた自分に対する自信を持っています。人生、何十年か生きていれば、自分の力で成し遂げてきたことも多くあるのが普通でしょう。しかし、死んでいくという現実に直面した時、その自分が、まったく役に立たない者であることに直面するのではないでしょうか。死を前にしたとき、ただ立ちすくむしかないのが、本当のところでしょう。

病に侵された体で、壮絶な苦しみに耐えながら、力が尽きるまで修行し続けることを教える仏教もあります。それに耐え得る者は、聖者(しょうじゃ)と呼ばれます。仏や菩薩の境地を自力で開いていく聖なる者という意味です。しかし、多くの人は、自分ではどうしようもない弱さを抱えているのではないでしょうか。人の目に怯え、過ぎ去った過去に振り回され、未だ来ない未来に不安を抱く、そういう弱さを抱え、どこまでも深い不安を抱くものを、仏教では、聖者ではなく凡夫(ぼんぶ)というのです。お念仏のみ教えは、そのような弱さを抱えた凡夫の為に、説かれたみ教えなのです。どうしようもない無力感に襲われる時、同時に、普段聞かせていただいているお念仏が、生きた仏様の働きとして響いていくのではないでしょうか。

「お念仏でよかったですよ」の一言には、何とも言えない明るさが満ちていました。不安の中に、必ずお慈悲は響いてくださいます。普段から、大切に聞かせていただきましょう。

2016年2月1日

弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは

明けまして、おめでとうございます。本年もお念仏薫る中で、一日一日を味わい深く過ごさせていただきましょう。

さて、先日、ある御門徒宅で定期的に開かれている家庭法座でお取次ぎさせていただいた時、弥勒菩薩のことについて、少し触れさせていただきました。弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは、お釈迦様の入滅後(人としての命が終わった後)、五十六億七千万年後の未来に仏となってこの世に現れ、お釈迦様のように仏教を説き、多くの人々を救済していくとされている未来仏のことです。現在は、兜率天(とそつてん)という世界で、仏になるための修行をされているとされます。京都の広隆寺にある国宝の弥勒菩薩半跏思惟像は、写真等で、一度は、目にされた方も多いのではないでしょうか。この弥勒菩薩については、『弥勒下生経』や『弥勒大成仏経』などに広く説かれています。また、浄土真宗の根本経典である『仏説無量寿経』にも、弥勒菩薩が登場します。それは、お釈迦様が、阿弥陀如来の救いを、未来の人々にも説いていくように、弥勒菩薩に託す場面に登場します。親鸞聖人も、晩年、数多くのお手紙の中で「まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ…」など、お念仏をいただく信心の人は、弥勒菩薩と等しい位にあることを教えておられます。

家庭法座の折、この弥勒菩薩について触れさせていただいた時、お参りされていた方から、次のようなご質問をいただきました。

 「御院家さん、五十六億七千万年後に、弥勒菩薩が、この世に現れるという話は、本当にお釈迦様が説かれたことなんですか?五十六億七千万年経ったら、人間も地球も無くなってるかもしれませんよ。」

確かに、ご質問してくださった方が、おっしゃるように、お経の中には、「本当に?」と疑いたくなるお話が、たくさん説かれています。弥勒菩薩のお話も、その一つでしょう。いくらお釈迦様が説かれたことでも、事実とは思えないというのが、私達の正直な感想ではないでしょうか。お経というのは、嘘を説くものではありません。それに対する信頼は、仏教徒であれば、持ち続けなければならないと思います。しかし、お経の読み方で難しいのは、必ずしも事実が説かれているのではないということです。それでは、嘘なのかというと、嘘ではないのです。

五十六億七千万年後の未来のことなど、事実がどうか、誰にも判定することはできません。そんな無謀なことを、無理矢理信じ込ませようとするのが、お経の真意ではないのです。五十六億七千万年後の未来に行けたとして、私が、弥勒菩薩を見たとします。見てどうなるのでしょうか。珍しいものを見たというだけで、私自身の救いや悟りとは、全く関わりのないことになるのではないでしょうか。珍しいものを見るだけなら、観光旅行と変わりません。お経というのは、一字一句に、私の想像を超えた深い意味が込められてあるのです。

弥勒菩薩の説話は、お釈迦様が説かれた仏教は、不変不滅のものであることを教えようとされたものだと思います。お釈迦様が説かれた教えは、お釈迦様の個人の見解ではなく、この世界を貫く真理であることを伝えようとされているのです。お釈迦様が説かれた内容を、仏教では、「法」といいます。これは、法則のことです。お釈迦様は、個人的な見解を示されたのではなく、世界を貫いている法則を発見されたということです。命とは、どんな意味を持つものであるのか、物事は、どのように成り立っているのか、その中で、人間はどのように人生を受け止め、死を受け止めていくべきなのか、これらの普遍的な真理を教えているのが仏教であれば、お釈迦様が、人々の記憶の中から消えていくようなことがあったとしても、その普遍的な真理を悟り、人々を救済していく者が、必ず出現していくはずです。なぜなら、阿弥陀如来がそうであるように、安定した真理は、不安定な迷える者に、常に働きかける在り方をしているからです。

お経というのは、親鸞聖人などの祖師方の指南を仰がなければ、そこにどんな意味が隠されているのか、到底分かりようがありません。二千五百年もの間、様々な人々によって読み続けられてきたのです。無限の感動を与え続ける言葉なのです。よくよく、素直に仰ぎ聞かせていただきましょう。

2016年1月1日

浄土三部経のお勤め

先日、山口南組の連続研修会で、あるお寺の御門徒さんが、浄土三部経についてご質問されました。それは、次のようなご質問でした。

「昔のご法事では、よく前の日からご住職が来られて、浄土三部経をお勤めされていたことがありました。最近は、あまりご法事で、浄土三部経をお勤めするということを聞かないのですが、やはり、五十回忌までのどこかの年回忌では、お勤めしてもらった方がよろしいのでしょうか?」

 これに対して、御講師の先生のお答えは、次のようなことでした。

 「浄土真宗の正式な経典は、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の三つの経典です。この三つの経典をまとめて『浄土三部経』といいます。この『浄土三部経』のお心を頂くのが、正式なご法要の形ですが、『仏説無量寿経』だけでも、お勤めするのに、最低二時間はかかります。ですから、昔は、二日間かけてご法事をお勤めしていました。今は、誰もが忙しい時代になりました。『仏説阿弥陀経』か『正信念仏偈』だけをお勤めされているお寺様が、ほとんどかと思います。しかし、『浄土三部経』を頂きたいという思いは、尊いことですので、一度、お手次ぎの御住職にご相談されてみてはいかがでしょうか?」

 この研修会が終わった後、このご質問について、山口南組の御住職方と雑談を交わしました。どこのお寺でも、最近は、『浄土三部経』をお勤めしてくださいというお願いは、全くなくなったということでしたが、七十歳代の御住職方が若い時には、時々ご依頼があったということでした。やはり、その時は、前の日から御門徒宅に伺い、二日がかりでご法事をお勤めしていたそうです。そんな雑談の中、あるお寺の七十歳代の前御住職が、次のようなことを教えてくださいました。

 「私が若い頃、今は御往生された組内の御住職が、よくおっしゃっておられました。それは、ご法事で『浄土三部経』のお勤めを依頼された時は、その御門徒宅の仏間の畳を、全て新しく張り替えてもらうようにお願いしているということでした。『浄土三部経』を頂くというのは、最初から最後まで、お釈迦様から、阿弥陀如来のお慈悲を聞かせていただくということです。お釈迦様から、正式にお説教を頂くのですから、場所も身形も環境を綺麗に整えないともったいないとのことでした。本来のご法事というのは、それほどの心持ちでお迎えしないといけないものなのでしょうね。」

仏法に対する、妥協のない厳しい態度に、はっとさせられたことでした。

お経というのは、お釈迦様のお説教なのです。ですから、そのお経を頂くご法事というのも、お釈迦様から、阿弥陀如来のお慈悲を聞かせていただくご縁の場ということになります。故人は、私達に、お釈迦様のお説教を聞かせてくださる尊いお導きをくださったのです。

浄土真宗では、僧侶がお説教させていただくことを「お取次ぎ」といいます。これは、僧侶が直接、自分の考えをお説教するのではなく、お釈迦様のお説教を取り次いでいるのが、僧侶によるお説教だからです。僧侶の考えを聞かせていただくのと、お釈迦様のお説教を聞かせていただくのとでは、心持ちに大きな違いがあります。凡夫である僧侶の考えは、凡夫の話です。迷い多き凡夫の話を聞くのが、ご法事ではありません。仏様のお説教を聞かせていただくから、法の事なのです。仏様のお説教を聞かせていただくのなら、一つ一つ、頭を下げて丁寧にお迎えさせていただかなければなりません。また、僧侶自身も、丁寧にお迎えされるお姿の中に、仏様のお心をお取次ぎさせていただく責任の重大さを感じていくのではないでしょうか。

ご法事をお迎えする御門徒とお取次ぎする僧侶と、双方ともに、仏様の直々のお説教を聞かせていただく場という静粛さを持つことが、ご法事では大切なことなのでしょう。ついつい、世間の事と同じようにご法事のことも扱ってしまう私達です。

ご法事を文字通り、仏法の事として、お迎えされていた先人の方々のお姿に学ばせていただきましょう。

2015年12月1日

親鸞聖人の生き方に、自分自身の人生の意味を訪ねていく

先日、ある御門徒の仏前結婚式が、正法寺の本堂で営まれました。正法寺で御門徒の結婚式が営まれるのは、実に、六年ぶりのことです。葬式仏教と揶揄されるように、仏教というのは、お葬式やご法事など、人の死に関わる事の方が実際には圧倒的に多いのが現実です。しかし、本来、死を見つめることは、そのまま生きることを見つめることなのです。なぜなら、死なない人はいないからです。生と死は、決して切り離して考えることのできないものです。死を仏教の教えに依って受け止めていくなら、同じように、生きることも仏教の教えに依って受け止めていくべきでしょう。

さて、先日、比叡山において2011年から千日回峰行を行じておられる釜堀浩元さんが、千日回峰行で最も厳しい行である九日間にわたる「堂入り」を無事終えられたニュースがテレビで放映されました。千日回峰行は、七年間にわたる行で、千日間に約四万キロを歩く行です。歩くといっても、小走りのような状態で、地球一周分の距離を進み続けます。そんな中、七百日の回峰行を終えた時に、「堂入り」という最難関の修行に入ることになります。「堂入り」は、明王堂というお堂に九日間籠る行です。九日間、食べることも水を口にすることすら許されません。また、眠ることも横になることも許されません。口には常に真言を唱え、不眠不休、絶食の状態で九日間行じ続けるのです。この度、釜堀さんが、九日間の行を終え、御堂から出て来られる姿がテレビで放映されていましたが、ご自分で歩くこともできず、両脇を支えられながらのお姿でした。しかし、千日回峰行は、これで終わるわけではありません。2017年9月の満行まで歩き続けるのです。そして、その千日回峰行が満行したら、完全な悟りが開かれるのかというと、決してそうではないのです。天台宗は、本来、この世で仏になることを目的としていますが、天台宗の修行者の方々は、この世で完全な悟りを開けるとは思っていないそうです。生まれ変わり死に変わり、永遠にわたって修行は続けなければならないのです。

この千日回峰行を行ずる修行者の姿から、仏の道を歩むことが、本来どれほどきびしいのかがうかがわれます。現在でも、比叡山の修行者は、出家の形をとりますが、僧侶が、結婚を禁じられていたというのも、とても家庭生活を送れるような状況ではないからでしょう。仏道を歩む者は、身も心も一生涯を仏道修行に捧げなければならないのです。

このような厳しい仏道修行に一生涯を捧げる姿は、とても尊く清らかなものですが、これが、成仏道の唯一の道であるなら、多くの方々にとって仏教の救いというのは、非常に狭く閉ざされたものと言わざるをえません。そこに大きな疑問を持たれ、誰もが同じように救われていく道を仏教の中に求めていかれたのが、法然聖人であり親鸞聖人だったのです。お二人とも、比叡山においてあらゆる命がけの厳しい修行を積んでいかれた卓越した天台宗の修行者だったのです。

とりわけ、親鸞聖人は、二十九歳まで常行三昧という、比叡山において千日回峰行をはるかに凌ぐ厳しさで知られる修行を積んでおられたことが分かっています。そんな卓越した修行者が、結婚をし家庭を持たれたのです。現在でも、千日回峰行を満行された修行者が、結婚をし家庭を持てば、堕落した姿として批判の対象となるでしょう。しかし、親鸞聖人は、浄土真宗の開祖として多くの方々から仰がれるような対象になっていかれました。それは、親鸞聖人の生き方に、多くの方々が、仏教の真実を受け止めていかれたからでしょう。

人生の節目の儀式というのは、自分自身の生き方を、その宗教によって確かめ訪ねていくものです。お寺、神社、教会と様々な宗教に関わっていく日本人の特徴を、宗教に関して寛容だという肯定的な意見もあります。しかし、自分自身の拠り所とさせていただくみ教えは、一つでなければならないと思います。他の宗教に対して寛容であることと、自分自身の生き方死に方を見つめていくことは別の問題です。

親鸞聖人の生き方に、自分自身の人生の意味を訪ねていくのが、浄土真宗のみ教えをいただく者の本来の姿です。掛け替えのない人生のために、仏法を丁寧に聞かせていただきましょう。

2015年11月1日

「お育てをいただく」と味わう

先日、お寺の近くの道で、微笑ましい光景に出会いました。自転車で道を走っていると、若い女性が、道端で背伸びをして遠くを見ている後姿が見えてきました。近づくと、それは、保育園の保護者の方でした。軽くご挨拶をして、そのまま自転車を少し走らせると、今度は、小さな女の子が二人、楽しそうに歩いている後姿が見えてきました。自転車から降りて、後ろから声をかけると、それは、保育園に通う三歳の女の子と、今年の三月に保育園を卒園した一年生のお姉ちゃんの二人姉妹でした。住職に気づいた三歳の女の子が、「園長先生!」と笑顔で呼んでくれます。大きなバッグを両手で抱え込んで、はじけるような笑顔で話しかけてくれます。住職が、「どこに行ってきたの?」と尋ねると、「お買いもの!」と答えが返ってきました。「二人だけで?」と尋ねると、これまた、「うん!」とはじけるような笑顔です。「すごいね。上手にお買い物に行けたんやね。お母さんに、いっぱい褒めてもらえるね。」と声をかけると、二人とも、嬉しそうに照れ笑いを浮かべていました。おそらく、二人の後ろで背伸びをしていたお母さんは、二人が、家を出る時からずっと、距離を置いて、二人に気づかれないように、二人の様子を見守っていたのでしょう。二人の姉妹は、お母さんは、ずっと家で待っていると思い込んでいるようでした。

親鸞聖人は、阿弥陀如来をお母さんに喩えられています。親には、父親と母親がいますが、子どもは、母親のお腹の中で命が育まれていきます。母親にとって、そんな子どもは、自分自身の一部でもあるのでしょう。母性というのは、母親だけが持ち得る、我が子に対する真実の愛情です。世の中に「優しい」という言葉は、溢れていますが、本当の優しさとは、どんなものなのでしょうか?親鸞聖人は、阿弥陀如来のお慈悲こそ、本当の優しさであり、身近なところで喩えるなら、それは、我が子を愛する母親の心のようだとおっしゃるのです。

以前、ある先生が、「本当の優しさというものは、本来、気づきにくいものだ」と教えてくださったことがありました。なぜ、気づきにくいのでしょう。それは、「私が、やってあげている」という自己主張がないのが、本当の優しさだからです。私達も、様々な形で親切心を起こします。人に親切にした時、相手からお礼も言われず、無視された場合、心の中は、どんな状態になるでしょう。少なからず、心の中にモヤっとしたすっきりしないものが、残るのではないでしょうか。そして、その「してあげたこと」を、いつまでも覚えてはいないでしょうか。私達は、親切心を起こしても、どこかに、醜いプライドのようなものが混じってしまうのです。これを親鸞聖人は、「雑毒の善」とおっしゃっています。私達の行う善い行いには、どこかに毒が混じっているというのです。自分の都合ではなく、純粋に相手の幸せを願い、その実現を喜べる心が、本当の優しさです。

先ほどの若いお母さんのお顔は、本当に楽しそうな明るい表情をされていたのが印象的でした。子どもの成長を見守ることが、楽しくてしょうがないのでしょう。七高僧のお一人である曇鸞大師が、「生死の園、煩悩の林のなかに回入して遊戯し…」と、仏様が苦しみ抱えた命を救う働きを表現するのに、「遊戯」という言葉を使っておられます。これは、仏様があらゆる命の苦しみを引き受けていくことは、仏様にとっての無上の楽しみであることを表すものです。他の命のために、自分が苦しい思いをすることが、楽しいのです。私達とは、真逆の在り方をしているのが仏様ですが、それは、私達にとって、最も気づきにくい存在だといえるでしょう。その気づきにくい仏様が、私を呼び続けてくださっているのです。気づきにくい真実の優しさに抱かれていることに、気づいていきなさいと教えてくださるのが、浄土真宗です。気づけば、生きること死ぬことの見方が、変わっていきます。嬉しいことも苦しいことも恐れていたことも、如来のお慈悲に抱かれていることを知った時、その意味が変わっていくのです。そのことを、浄土真宗の御門徒の方々は、「お育てをいただく」と味わってきました。

私の命に、優しいお母さんのように、そっと寄り添い抱いてくれる、そんな温かい働きの中に、かけがえのない人生を歩ませていただきましょう。

2015年10月1日

親鸞聖人のお名号の掛け軸

今年のお盆も大変暑いものでした。浄土真宗のお盆は、お浄土へ往生された故人を偲びながら、僧侶自身も御門徒からお育てをいただく大切な時間です。今年のお盆も、たくさんの御門徒の方からお育てを頂いたことでした。あるお宅では、次のようなお話を聞かせていただきました。

「御院家さん、今日は、お盆のお勤めがあるので、親鸞聖人のお名号の掛け軸をかけさせていただきました。この掛け軸をかけながら、いつも、『親鸞聖人がいらっしゃったから、こんな私がお念仏を味わえる。よう、おでましになってくださったなぁ』と思わせていただくのです。ほんとに、有難いことです。」

 「お名号」というのは、南無阿弥陀仏のことです。親鸞聖人の直筆のお名号は、現在、全国に三幅ありますが、いずれも国宝に指定されています。この御門徒宅には、親鸞聖人の直筆のお名号の複製版があるのです。その複製版の掛け軸を掛けながら、親鸞聖人の御出世の御恩を味わっておられるのです。大変、有難いことです。

親鸞聖人は、お名号を御本尊として、門弟に書き与えておられます。御本尊というと、阿弥陀如来のお姿を模った木像や絵像が一般的です。お寺の御本尊も木像ですし、御門徒宅のお仏壇の御本尊も木像か絵像が、ほとんどでしょう。数多くいた法然門下の門下生の中でも、「南無阿弥陀仏」という文字を御本尊として、手を合わせ拝んでいたのは、親鸞聖人だけです。法然聖人も、名号本尊を拝んでいたという説もありますが、はっきりはしません。この「南無阿弥陀仏」という文字、言葉を御本尊として味わっておられたところに、親鸞聖人だけが到達した深い宗教的境地があるといってよいでしょう。

そもそも、御本尊というのは、根本的に尊いものということです。それは、人生の拠り所とするものです。人は、何かを拠り所として生き、死んでいきます。何者にも頭を下げず、自分の思うがままに生き死んでいく無宗教を自称する人であっても、自分の経験というものを拠り所としています。その人の場合は、自分自身が御本尊です。御本尊が思うことは絶対ですから、仏様が、どのように教えられていても、自分の思うことが絶対なのです。昔も今も、これが、普通の人間の姿なのでしょう。

仏教徒というのは、仏様を御本尊とする人達のことをいいます。仏様とは、いったい何者なのでしょう。親鸞聖人は、仏様とは、「南無阿弥陀仏」であることを教えられたのです。「南無阿弥陀仏」という言葉は、誰にでも口にすることができます。また、どんな状況、どんな場所でも口にできます。口にできない人は、心の中で称えても構いません。いつでも、どこでも、誰にでも、南無阿弥陀仏が聞こえる所には、仏様がいらっしゃるのです。南無阿弥陀仏という言葉には、阿弥陀如来のお心が込められています。阿弥陀如来のお慈悲の心から零れ落ちた言葉が、南無阿弥陀仏です。その言葉の内容は、つづめれば、御本願の内容です。「あなたを見捨てることができない、我が名を称えよ、必ず我が浄土に生まれんと思え」ということです。詳しく言えば、親鸞聖人がお書きになった数多くのお書物の深い内容が、全部、南無阿弥陀仏についてのことです。さらに広げれば、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の経典の内容になります。お寺の御法座というのも、南無阿弥陀仏の中身を聞かせていただくのです。

阿弥陀如来は、その無限の徳を一言の言葉に込め、言葉そのものになって、私に寄り添ってくださってあることを、親鸞聖人は、私達に教えてくださったのです。この言葉に導かれて生き死んでいく者は、やがて、悟りの境地が開けてきます。愚かな自分自身を絶対の御本尊だと思い込み、自他ともに傷つけていく本来の浅ましい私が、如来様を御本尊とする身に変わることができたのも、親鸞聖人がお出ましになり、そのことを教えてくださったからです。

浄土真宗の御本尊は、私の言葉になって私を守り導いてくださいます。聖人の御出世の御恩を味わい、大切にお念仏させていただきましょう。

2015年9月1日