先日、ある御門徒の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。
「御院家さん、主人が、先日から入院しました。病室で付き添っている間、会話もあまり出来る状態ではないですから、時間を持て余してしまいました。何か、本でも読もうかとも思ったのですが、写経をさせてもらおうと思い立ちました。ちょうど、家に蓮如上人の『御文章』のひらがな版があったので、病室で『御文章』を写しています。昔も今も、人って変わらないんですね。五百年も前の人に向けて書かれたものなのに、今の私に向けて書かれているような思いになります。」
蓮如上人(れんにょしょうにん)という方は、本願寺の第八代御門主で、親鸞聖人の直系に当たる方です。親鸞聖人の時代から、約二〇〇年経過した室町時代に活躍されました。浄土真宗のみ教えは、この蓮如上人によって、日本全国に広められたのです。『御文章』は、その蓮如上人が、浄土真宗のみ教えを正しく御門徒の方々に届けるために書かれたお手紙です。交通面も通信面も、何も発達していない時代に、わずか数年の間に、日本中に浄土真宗のみ教えが行き渡ったのは、この『御文章』による伝道が大きく貢献したからです。
現在、蓮如上人の直筆と認められる『御文章』は、二百五十二通残っています。実際に書かれたものは、それ以上にあったことでしょう。はじめて書かれた『御文章』は、寛正二年という年に書かれました。蓮如上人四十七歳、本願寺の御門主に就任されて、すでに四年が経過していました。この年は、寛正の大飢饉と呼ばれる大惨害があった年でもあり、また、宗祖親鸞聖人の二〇〇回大遠忌にあたる記念の年でもありました。この年、日本全国を襲った寛正の大飢饉は、記録によると、京都の都大路に餓死者の死体が累々と重なり、賀茂川に捨てられた死体は八万二千体を超えたとされています。その死体で賀茂川の水はせき止められ、京都の町には死臭がみなぎっていたそうです。そんな中、民衆の生命の安全を守るはずの将軍や大臣達は、自分達の権力闘争に明け暮れ、民衆の苦しみなど顧みようとはしません。また、延暦寺や興福寺などの諸大寺の僧侶達も、寺領荘園から年貢を徴収することに躍起になり、飢えた農民が土地を捨て逃げようとするのを、力づくで阻止しようとするばかりでした。心ある僧侶たちは、裕福な信者達を説得し、炊き出しをしますが、それも焼け石に水のような状況だったようです。僧侶にできることは、飢饉が治まるよう祈祷したり、死者の冥福を祈ることしかない状況だったのです。
そんな中、蓮如上人は、浄土真宗の法灯を継ぐ者として、自分が何をなすべきか、飢える民衆の群れの前に、必死で考え抜かれます。そして、この地獄のような世界に苦しむ人々の心に、阿弥陀如来の大悲の心を届けていく以外に、自分の生きる道はないと思い定め、『御文章』を書き始められたのでした。この『御文章』は、文字が読めない人が当たり前の時代、親鸞聖人のみ教えが、耳に聞くだけで、どんな人にでも分かるように書かれています。飢えて死んでいく悲しい現実から眼を背けることはできません。しかし、人は、飢えなくても死んでいくのです。死の縁は無量です。限りある命を恵まれた者が、その命を心豊かに生き抜き、心豊かに死を受け入れることのできる世界が、仏教の説く命の世界であり、とりわけ、どんな立場の人にでもその世界が恵まれていくみ教えが、浄土真宗だというのが、蓮如上人の信念でした。
この『御文章』によって、妙好人と讃えられる御門徒の方々が多く育っていきました。浄土真宗には十派の教団がありますが、妙好人と讃えられる御門徒を輩出したのは、『御文章』を拝読する西本願寺、東本願寺、興正寺を本山とする三派だけです。本願寺の流れをくむ御門徒のお家には、お仏壇と一緒に、必ずこの『御文章』が置かれています。それは、家の者が拝読するためにご先祖の方が、置かれたのです。
み教えというものは、豪華な御馳走と同じです。眺めているだけでは、意味がありません。しっかり、身と心で味わってこそ、価値があるものなのです。日々の生活の中、み教えを味わう日常を送らせていただきましょう。
先日、日曜学校を卒業した中学生の女の子二人が、夏休みの宿題で、正法寺のことを調べに来てくれました。あらかじめ、用意してきた質問に答えていくというものでしたが、中には、思いもよらない鋭い質問もあって、思わずたじろいでしまう場面もありました。住職が、思わず言葉を詰まらせた質問の一つは、次のものです。
「天台宗と浄土真宗は、何がどう違うのですか?」
天台宗と浄土真宗については、正法寺が、元は天台宗のお寺であったのが、浄土真宗のお寺に変わったことを調べてきた上での質問でした。中学生に、これを簡潔に説明するのは、非常に難しいことです。「天台宗は、自分の力で仏様に成ることを目指すみ教えで、浄土真宗は、阿弥陀如来様の力で仏様に成ることを目指すみ教えです」とだけしか答えられませんでした。中学生二人は、日曜学校に通ってくれていたこともあり、うんうんと頷いて聞いてくれましたが、住職自身が、すっきりしない思いを持ってしまいました。
そもそも、仏様に成ることを目指すみ教えが仏教ですが、この「仏様に成る」ということ自体が、非常に分かりにくいものです。また、それが理解できたとしても、「仏様に成りたい」と、本当に思えるかどうかも問題です。この「仏様に成りたい」という心を、仏教では「菩提心(ぼだいしん)」といいます。「仏様に成りたい」という心は、仏教では、スタート地点に立つことですから、菩提心は、本来なくてはならないものです。
しかし、このなくてはならない菩提心を、起こす必要がないと、明確に否定されたのが、法然聖人でした。この菩提心を否定する立場は、当時、日本仏教の中心であった比叡山天台宗や奈良の興福寺を中心とする南都六宗から痛烈な批判を浴びていきます。これらの批判は、当然のことでもありました。「仏様に成りたい」という心が必要ないのであれば、「仏様に成ることを目指す」仏教そのもののみ教えが成立しません。この法然聖人の姿勢は、国家をあげての念仏弾圧へと繋がっていくことになります。
法然聖人のご往生後、これらの旧仏教教団や国家の批判に対して、その教説の正統性を理論的に証明していこうとされたのが、弟子の親鸞聖人だったのです。法然聖人や親鸞聖人が、菩提心を起こす必要がないと主張されたのは、起こすことのできない凡夫の現実を見つめておられたからでした。
仏様というのは、あらゆる命を平等に慈しみ愛し、悲しみを背負っていくような存在です。「あらゆる命を平等に」というのは、極端に言えば、我が子の命も、蛆虫一匹の命も、同じように慈しみ愛していくということです。はたして、私達に我が子の命とまったく同じように、蛆虫一匹の命を愛することが出来るでしょうか。私達は、自分の都合に合うものを愛し、都合に合わないものを憎しみ、それ以外の者に無関心でいるのです。私達が、起こす愛は、自分の都合を基準にした愛欲ですから、ある日突然、愛が憎しみに変わったりします。怨愛平等の仏様の世界を目指すというのは、実は、想像することも出来ない世界を目指すということなのです。修行どころか、それを始めるスタート地点に立つことすら出来ないのが愚かな私の姿であるというのが、法然聖人や親鸞聖人の自己に対する内省でした。
浄土真宗というみ教えは、私が、仏様を目指すみ教えではないのです。菩提心を起こすことなく仏様に背き、どこまでも逃げていく私を、仏様の方が追いかけ摂め取ってくださることを聞かせていただくみ教えなのです。もし、私が、仏様の尊さに気づいていくことがあるなら、それは、仏様の救いの働きによるものです。必ず救うと誓われた仏様の働きによって、知らず知らずのうちに、育てられ導かれたのです。
中学生の二人は、最後に「このお寺で何を伝えて、何を一番遺していきたいですか?」と質問してくれました。「どんな人間、どんな命でも、仏様に願われ愛されているということです。」と答えました。
私達のお寺が、何を聞くためにあるのかを知ることは、とても大切なことです。永い歴史を重ねてきた意味を、改めて、大切にさせていただきましょう。
先日、第16回山口教区仏教讃歌の集いが、本願寺山口別院を会場にして、正法寺のコール芬陀利華のお引き受けで開催されました。今年は、地元でのお引き受けということもあり、初めて、日曜学校の子ども達にも参加してもらい、大人と子どもが一緒に仏教讃歌を歌うことができました。披露した曲目は、「のんのさま」という曲と、親鸞聖人の『歎異抄』のお言葉に歌手のちひろさんが曲をつけた「ただ念仏して」という曲です。歌というのは、歌詞の意味が分からなくても、音楽に乗って、その言葉の持つ力が胸に響いてくるものです。仏事の時にお勤めするお経も、本来は、仏様のお言葉に曲をつけて奏でる宗教歌と言っていいでしょう。
お釈迦様が御入滅され、しばらく経った頃、インドの僧侶数人が、お釈迦様のお言葉に曲をつけて、歌を奏でていました。その歌声の美しさに動物の象までが立ち止まって、動けなくなったという話があります。音楽というのは、人の心が奏でるものであり、理屈では表現し尽くすことのできない宗教的世界が、それによって見事に表現されていきます。この度、コール芬陀利華が歌わせていただいた「ただ念仏して」という曲も、「ただ念仏して」という言葉の意味が分からなくても、子どもの声に乗って、大人の声に乗って、親鸞聖人が経験された宗教的世界が、万人の胸に染み込んでくるようでした。
この「ただ念仏して」という言葉は、親鸞聖人が晩年、お弟子の唯円房に語られた浄土真宗の真髄といえるものです。『歎異抄』には、次のように記されています。
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(源空)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」
ただお念仏して阿弥陀如来に助けていただきなさいと教えてくださった法然聖人の言葉を信じているだけで、それ以外に詳しい特別なことは何もないとおっしゃいます。とても単純で簡単なことですが、しかし、この単純な言葉の中に、無限の意味が広がっているのです。
私達は、「ただ念仏しなさい」と言われて、本当に素直に「ただ念仏」できるでしょうか。人は、自分が正しいと思っていることにそぐわないものを、素直に受け入れるということができません。自分の理屈に合わなければ、受け入れることが出来ないのです。
これを仏教では、自力といいます。親鸞聖人は、九歳から二十九歳に至るまでの実に二十年の長きにわたって、この自力の道を歩まれました。自分の力を信じ、自分の能力を頼りにし、生と死に惑う在り方を超え、仏の悟りの境地を目指されました。それは、正に人生そのものをかけた壮絶な日々でした。ここでは、詳しく記すことはできませんが、自力の修行というのは、自分の命すべてをかけて行う、命がけのものなのです。そして、二十年の修行の末、親鸞聖人に訪れたのは、自力に対する絶望だったのです。自分に絶望した人間は、普通、それ以上、生きることはできません。自分を信じることが出来ない人間は、生きることなど出来ないのです。しかし、死ぬこともできません。本当に自分に絶望した人間は、死ぬに死にきれないところがあるのです。死んで解決できる問題なら、初めから命を懸けた修行などしません。生きることも死にきることもできないのが、親鸞聖人が味わった絶望でした。
そんな状況で、親鸞聖人の前に立ち現われてきたのが、「ただ念仏して」という他力の世界だったのです。他力の世界というのは、自力が尽きたところに立ち現われてくるものなのです。自力と他力とを比べて、他力を選んだのではないのです。自分に絶望した人間だから、「ただ念仏して…」という如来様の純粋無垢なお心が響いたのです。
「ただ念仏して」という法然聖人から頂いた言葉には、如来様の慈愛が満ち満ちていました。そして、その言葉は、自分に絶望した凍てついた心を溶かし、如来様の慈愛に包まれた新しい意味を持った人生が開かれていく言葉だったのです。
先日のコーラスでは、親鸞聖人が味わわれた救いの感動と如来様の慈愛に満ちた響きが、「ただ念仏して」という音楽に乗って、万人の胸に染み込んでくるような素晴らしさでした。
様々なところに、仏縁は用意されています。頂いた仏縁を、素直に喜べる毎日を過ごさせていただきましょう。
先日、6月5日に浄土真宗本願寺派第24代即如門主が御退任され、翌6月6日に第25代専如門主が、新たに浄土真宗本願寺派門主及び本願寺住職に御就任されました。御門主の代替わりは、教団として一つの時代が終わり、新しい時代をお迎えしたことになります。専如新門主とは、龍谷大学の大学院時代、机を並べて共に学問に励んだ学友でもあり、住職にとっても、特別に感慨深いものがあります。
正法寺が所属する山口南組では、6月5日の退任式と6月6日の法灯継承式に、僧侶による団体参拝を計画し、住職も、山口南組の各寺院の御住職方と一緒に参拝させていただきました。先日、国宝に指定された御本尊阿弥陀如来が御安置されている阿弥陀堂と宗祖親鸞聖人が御安置されている御影堂共に、溢れんばかりの参拝者で埋め尽くされていました。二日間とも、八千人以上の方々が、参拝されたそうです。
私達のご本山本願寺は、親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人によって創建されたのが始まりです。覚如上人は、親鸞聖人が御往生されてから八年後にお生まれになりました。本願寺を創建されたのは、四十一歳の時です。当時、まだ多くの親鸞聖人の直弟子の方々が健在であり、また、その直弟子の方々を中心とした浄土真宗の教団が栄えていました。そんな中、親鸞聖人の子孫に任されていたのは、親鸞聖人のお墓を護持することでした。覚如上人は、このお墓を寺院化することによって、浄土真宗のみ教えを喜ぶ人々を束ねていくような、浄土真宗教団の中枢を担おうとされたのでした。そして、親鸞聖人、孫の如信上人、曾孫の覚如上人と三代に亘る親鸞聖人の正統な血統者を通じて、正しい法義が相続されてきたことを宣言されたのでした。
それから、約150年後、第八代御門主に就任された蓮如上人の伝道活動によって、本願寺教団は、飛躍的に発展を遂げていきます。一説には、日本の仏教徒の三分の二が、浄土真宗門徒に変わったとも言われています。しかし、それは、必然的に時の政治権力との衝突を生んでいくことにもなりました。第十一代顕如上人の時代には、織田信長との十年に亘る石山合戦を経験することになります。武術の心得も何もない御門徒の老若男女が、お念仏のみ教えを守るために、織田方の並み居る武将たちと命がけで戦った戦争でした。この戦争により何十万人という御門徒が命を失い、本願寺は、西本願寺と東本願寺の二つに分裂していきます。
750年もの歴史を重ねる中で、お念仏のみ教えを正しく伝え遺していくという営みは、決して平坦なものではありませんでした。時代ごとに、人々の価値観も変わり、それに伴って、社会の様子もかなり変化していきます。昭和の初めと今現在の人々の価値観とを比べてみても、かなりの隔たりがあることが分かります。一世代、ニ世代、遡るだけでも、人々の社会的価値観は大きく変化しているのです。そんな中にあって、750年もの間、絶え間なく伝えられてきたことは、それだけで、私達に大きな意味を投げかけているように思います。どんなに時代が変わり、人の価値観が変化しても、人が抱えねばならない苦悩には変わりはありません。仏様がお示しされる道は、人間存在の根本的苦悩を超えていく道です。
仏様のみ教えが説かれた「お経」という言葉には、縦糸という意味が込められています。織物というのは、縦糸がしっかり通っていれば、横糸が、どんなに乱れたとしても、秩序を失うような乱れ方は決してしませんし、乱れたとしても、その乱れを正していくことが出来ます。仏様のみ教えは、人間社会において、縦糸の役割を担うものなのです。
様々な時代を通じて、現在に至るまで、お念仏のみ教えが伝えられてきたということは、時代の価値観に左右されることのない輝きが、そのみ教えの言葉の中に満ちているからでしょう。 今年、住職と同じ三十七歳を迎える専如新門主は、門主就任に際して、「現代という時代において、どのようにしてご法義を伝えていくのか、宗門の英知を結集する必要があります」とのお言葉を述べられました。現代社会に生きる人々に、お念仏の輝きをどのように伝えていくのか、若い新門主を中心とした新しい教団の姿に期待が集まっています。私達も、子や孫に、時代に左右されない輝きを残してゆける、立派な先人になってゆきたいものです。
5月7日に、正法寺の親鸞聖人750回大遠忌法要で御講師をお勤めくださった本願寺派勧学の梯實圓(かけはし じつえん)和上が、御往生されました。勧学(かんがく)というのは、浄土真宗の学問を極められた方に与えられる最高位の称号で、勧学の先生から組織される勧学寮は、教団内で思想的な問題が起こった時の、御門主の諮問機関とされています。勧学の称号を与えられた先生は、和上(わじょう)という敬称をつけてお呼びします。勧学和上は、教団内に十人前後いらっしゃいますが、その中でも、梯實圓和上は、他に類を見ない博学さもさることながら、その上に尊い徳も兼ね備えた、まさしく学徳兼備の高僧として、全国の僧侶と御門徒の方々から、特に慕われ、尊敬を集めておられた方でした。
住職自身も、大学院生の頃から梯和上のお導きを賜り、本当に多くの大切な事柄を教えて頂きました。五年前、正法寺の大遠忌法要に、お忙しい中、無理を言ってお越しいただき、本当に尊いご法話を賜ったことは、正法寺にとって歴史に残る掛け替えのないご縁だったと思います。その大遠忌法要の一ヶ月ほど後のことだったと思います。大阪にある梯和上のお寺で勉強会があり、参加させていただいた時のことでした。休憩時間になった時、梯和上が控室に戻られる前に、一言、先日のお礼をさせて頂こうと思い、急いで、筆記用具などをカバンに詰めて立ち上がろうとした時でした。顔を上げると、目の前に梯和上が立っておられたのです。驚いて、慌てて立ち上がると、梯和上は、まだ三十歳を少し過ぎたばかりだった住職に、にこやかに頭を下げられ、「先生、先日は、大変お世話になりました」とおっしゃったのです。それは、住職が、言おうとしていたセリフでした。勧学和上として、全国の多くの僧侶と門徒を導く立場にある方が、五十歳も年下の新米住職を先生と呼び、頭を下げ、にこやかに接してくださる姿に、改めて和上のお徳の深さを知らされたことでした。
お通夜と葬儀は、北御堂として有名な大阪の本願寺津村別院で営まれました。葬儀には、お参りすることは叶いませんでしたが、前日のお通夜のご縁に遇わせていただくことができました。広大な境内は、何百人という人々で溢れかえっていました。三月に正法寺の春季彼岸会に御講師としておいで下さった天岸浄圓先生が、涙を流されながらご法話をしてくださいました。天岸先生は、高校一年生の時から足掛け五十年もの長きにわたって、梯和上のお導きをいただいたそうです。梯和上から賜った様々な御恩をお取次ぎくださいましたが、その中で、和上の臨終後にかけつけた時、和上の奥様からお聞きになったお話もしてくださいました。
和上は、昨年末より体調を崩され、入院しておられましたが、いよいよ臨終が近いことを御家族も覚悟された時のことだったそうです。奥様が、和上に「お父ちゃん、五十六年間、ほんまにありがとう。ほんまに楽しかったね。」とお声をかけると、和上は、にこやかに一言だけ、「今も」とお返ししてくださったそうです。生老病死は、誰にでも平等に訪れます。しかし、どんな状況にあっても、一瞬一瞬の今を、充実した命の中で生きることが出来ているでしょうか。生も老も病も死も、お念仏をいただく者にとっては、ありがたい充実した一時であることを、和上は、身をもって教えてくださいました。
以前、和上は、「お浄土に参らせていただいたら、親鸞聖人にお聞きしたいことが、いっぱいあるんです」と、本当に楽しそうにお話されておられました。死んで終わっていく命ではないことを、微塵も疑っておられませんでした。次の日の葬儀でも天岸先生が、お取次ぎくださったそうですが、その冒頭、天岸先生は、和上の遺影に向かって「和上、御往生おめでとうございます」と深々と頭を下げられたそうです。この世に誕生してきた時に「おめでとう」と迎えられたように、人の縁尽き命終わっていく時も「おめでとう」と見送られるような人生があるのです。
私にとって、本当に充実した実りある人生とは、お念仏が申せる人生であることを、親鸞聖人は、教えてくださいました。そして、そのことを身をもって教えてくださる方が、いつの時代にもいらっしゃるのです。
改めて、梯和上を偲ばせていただく中で、お念仏に生かされる身の幸せを感じたことでした。
先日、ある御門徒の方から、お子さんのことについて、次のようなご相談がありました。
「二週間ほど前に、曾祖母が亡くなったのですが、そのことがきっかけで、娘の情緒が不安定になってしまって、どうしたらよいか困っています。『人は、死んだらどうなるの?』とか『死ぬのが怖い』とか尋ねてくるのですが、私には、何と声をかけてあげればよいか分からないのです。御院家さん、一度、娘の話を聞いてもらえないでしょうか。」
後日、お母さんも一緒に交っていただいて、娘さんのお話を聞かせていただきました。普段、とても明るい小学四年生の女の子ですが、住職が、改めて曾お婆ちゃんのことについて声をかけると、うつむき、涙を流してしまいました。これほどまでに彼女を追い詰めたものは、死の恐怖でした。曾お婆ちゃんが亡くなった悲しみもさることながら、それ以上に、人の最後に初めて立ち会ったことが、彼女に予想以上の衝撃を与えたようでした。焼かれて、骨になる姿を目の当たりにした時に、自分もいつかはこんな風になってしまうのかと思うと、毎日が恐ろしくなってきたというのです。
非常に豊かで強い感受性をもった彼女を前に、慎重に言葉を選びながら、声をかけさせていただきました。それは、阿弥陀如来がみそなわす世界が、本当の世界であること、人は、死んで終わっていくのではないこと、如来様が、いつも安心してほしいと願っておられ、生きても死んでも、いつも寄り添ってくださっていること、などをお話させていただきました。どこまで、彼女の心に届いたのかは分かりません。しかし、小さい頃から休まずに日曜学校に通ってくれている子どもです。彼女には、如来様の大きなご縁が働いています。きっと、この日のことを大切に受け止めてくれる日が来るに違いありません。お話しながら、怯え悲しむ彼女をあたたかく包み込む如来様のお慈悲があることを、改めて、ありがたく味わったことでした。
自分の死を受け止めることのできる生き物は、人間だけだといいます。なぜ生まれてきたのか、なぜ死んでいかねばならないのか、生きる意味と死んでいく意味に心を傾けていくところに、本当の人間らしさが生まれてくるのではないでしょうか。数年前から、大都市部では、葬儀を勤めずに火葬にする直葬というものが、行われるようになってきたといいます。さらに、最近では、直葬にした上、遺骨さえも火葬場で処分してもらう零葬と呼ばれるものまで行われることがあるそうです。不気味な恐ろしさを感じます。大切な方を弔うことが、ゴミを処分することと同じになっています。大切な方をゴミとして処分する方々は、自分もまた、ゴミになっていくことに、何の疑問も感じないのでしょうか。命を、役に立つか、立たないかでしか見ることのできない方は、生まれてきたこと、生きていることを、心から喜ぶことができない人です。本当の幸せを知ることはないでしょう。自分が、どれほどのありがたい心に恵まれて きたのかも知ることなく、自分にとって役に立たないから、ゴミとして処分するというのは、鬼畜の仕業としかいいようがありません。
親鸞聖人が、二十年間の比叡山での厳しい修行の末、悩みに悩み抜かれて、法然聖人の下へ赴かれたのは、「生死出づべき道」を明らかにするためだったと、奥様の恵信尼様が、お手紙の中で綴っておられます。「生死出づべき道」というのは、生きることも、死んでいくことも、同じように尊くありがたいこととして受け止めていける道です。死んでいくことも、尊く有難いこととして、大切に受け止めてゆける世界があるのです。それは、人ではなく、阿弥陀如来がみそなわす仏様の世界なのです。そして、その仏様の世界を聞く耳を持ち、まことであると受け止めてゆける心を持っているものを人間というのです。
命の隠しようのない事実の前に、心締めつけられ、どうしようもなく立ちすくんでしまう、そんな人間らしい私を、如来様は深く慈しみ愛してくださいます。どうしようもない苦しみを抱える私の為に、如来様はお慈悲を起こされたのです。人間らしい心を大切に、お慈悲を味わっていきたいものです。
先日、ある御門徒のご法事の折、御親戚としてお参りされておられた御門徒の奥様と次のような会話をさせていただきました。
奥様 「御院家様、お久しゅうございます。」
住職 「お元気でお過ごしでいらっしゃいましたか?先日の御正忌報恩講には、息子さん御夫婦が、お参りしてくださってましたね。」
奥様 「私は、足腰が弱ってしまって、お寺にお参りしにくくなってしまいました。御正忌報恩講の時には、私達夫婦が、お参りすることが難しくなったので、息子夫婦にお参りしてくれるように頼みました。すると、素直に『いいよ』と言ってくれました。それが、何より有難くて、うれしいことでした。」
お経には、仏様のみ教えを聞くことの難しさが、所々に記されています。これは、み教え自体の難しさを言っているのではありません。人にとって、仏様のみ教えを聞くということが、難しいと言われているのです。仏様のみ教えを聞こうとする人は、稀です。なぜなら、多くの人は、自分が正しいと思っているからです。教えられる必要のない人は、当然、教えを聞こうとはしませんし、仏様に手を合わせたり、お寺にお参りする意味も分からないでしょう。お経には、「稀有人」「妙好人」「最勝人」「上上人」など、仏様のみ教えを聞き受け、喜ぶ人々を褒め讃える言葉がたくさん記されています。それほど、仏教を聞くことは難しい事であり、聞くことのできる人は、尊い人なのでしょう。
そもそも、仏教の上から味わいますと、世の中に宗教を持たない人は、存在しません。それは、どんな人であっても、御本尊と呼ぶべきものを持ち合わせているからです。御本尊というのは、「根本的に尊いもの」という意味です。つまり、その人にとって、最も大切で尊ぶべきものを、御本尊と呼ぶのです。どんな人であっても、大切に尊んでいるものがあるはずです。多くの場合、それが、自分自身になっています。自分の願望を叶える最も有効な手段が、お金であれば、お金が儲かることが、どんなことでも正しいことになっていきます。また、地位や名誉が、自分を守る大切なものであるならば、自分の地位や名誉を得るためにすることは、どんなことでも正しいことになります。人は、自分自身を御本尊とし、その自分を守るものを大切にし、そうでないものを邪見にしていきます。このように、その人の考え方や生き方を定めていくものを、御本尊と呼び、その意味では、誰もが、宗教的であると言えるのです。
そのような中で、仏教というのは、仏様を御本尊とすることを教えていきます。また、仏様を御本尊とすることが、最も幸せな生き方であることを教えようとしているのです。自分を御本尊としている普通の人は、その生き方に疑問を持つことは、ほとんどないでしょう。しかし、中には、その生き方、有り方に疑問を持つ方々がいらっしゃるのです。生きていくことが出来ない、また、このままでは、死んでも死にきれないという人生の局面にぶつかる人々にとって、自分という御本尊は、その局面の前に、脆く打ち砕かれていく弱いものでしかありません。
私達のご先祖は、阿弥陀如来を御本尊とする浄土真宗というみ教えを、伝え遺してくださいました。それは、他の命の悲しみを引き受け、自分の幸せを、他の命に代わり与えていくという、深いお慈悲の心を御本尊とし、そのお心を最も大切にする生き方です。私達は、自分を大切にしますが、その自分が、どれほどの恵みの中に生かされてあるかを見ようとはしません。その恵みに心が向かない限り、本当の幸せを感じることは出来ないのではないでしょうか。自分の我欲を満たすことにのみ命をすり減らし、自分がどれほど深く愛されている命であるのかを感じることが出来ずに死んでいくというのは、不幸な人としか言いようがありません。
浄土真宗のみ教えを伝え遺してくださったご先祖の方々は、子孫の私達の本当の幸せを願ってくださったのではないでしょうか。子や孫に、本当に幸せな生き方を伝え遺していくことを、人生の喜びとしてゆける私達でありたいものです。
先日、ある御門徒の七日勤めにお参りした時のことでした。御当家の方から、次のようなお話がございました。
「先日、私の妹が、友人と三重県の伊勢神宮に観光でお参りしようとしたらしいのですが、電話で、先日母が亡くなったことを伝えると、係の方から、四十九日が明けるまでは、お参りしてもらっては困ると言われたそうです。誰でもお参りできると思っていたので、私も、それを聞いて驚きましたが、どういう理由なんでしょうか?」
一般に神社仏閣というように、神社とお寺とは、同じような場所として認識されている方も多いように思います。しかし、神社とお寺とは、全くの別物です。仏教と神道とは、教えの根幹が、全く異なっているのです。神道というのは、教祖も聖典も存在しない日本国独特の民族宗教です。これは、日本民族が本来持つ、一般的な共通の価値観から自然に生まれてきたものといえます。神道が説く価値観は、日本人なら誰もが根に持っている価値観であり、仏教徒の意識の中にも、少なからず影響を与えているといえるでしょう。しかし、お釈迦様が説かれたみ教えは、日本民族が根に持っている神道の価値観とは、根本的に異なるものであることは、はっきりとさせておかなければなりません。
その両者の大きな違いの一つが、生と死の受け止め方です。神道の価値観を知る上で分かりやすいのが、『古事記』に記されているイザナギとイザナミの二人の神をめぐる黄泉の国の神話です。この二人の神は、愛し合う仲の良い夫婦でしたが、妻のイザナミが、先に死んでしまいます。夫のイザナギは、悲しみのあまり、死後の世界である黄泉の国に妻のイザナミを追いかけていきますが、腐敗し崩壊していく妻の恐ろしい姿を見て、イザナギは逃げようとするのです。その夫の行動に怒ったイザナミは、イザナギを逃がすまいと追いかけていきますが、結局、イザナギは、黄泉平坂に大きな石を置きイザナミの追跡を食い止めた上で、妻であったイザナミに、もう夫婦ではないことを宣言するのです。その後、現世に帰ってきたイザナギは、「吾は穢き国に至りてありけり」と言って、河原の水で黄泉の国の穢れを体から洗い落とすという物語です。このお話、日本人なら共感できるのではないでしょうか。つまり、死は、穢れた恐ろしい世界であり、生きている現世こそが、素晴らしい世界だということです。また、どんなに愛し大切にしていた妻であっても、死んでしまえば、たちまち恐れるべき対象に変わってしまいます。昔、葬儀の時に、遺族が、故人が使っていたお茶碗を割るということがあったそうですが、これも、故人に対して恐れを抱き、二度と家に帰って来ないことを願う意味があったといいます。
このような淋しい日本人の価値観に変革をもたらしたのが、他ならない仏教なのです。仏様のみ教えによれば、命終わった方は、決して穢れてはいませんし、まして、遺族の方が穢れているなんてことは、到底考えられません。悲しみをご縁に、喜びをご縁にお参りするところがお寺です。古代の日本人が考えたように、死が恐ろしい穢れたものであるなら、必ず死んでいく人間は、みんな恐ろしい穢れた黄泉の国に堕ちていくということでしょう。どんなに逃げ帰っても、水で洗い落としても、必ずその世界に堕ちていかなければならないことを、『古事記』の神話は、誤魔化しているように思います。お釈迦様は、死を我が事と受け止め、お悟りを開いていかれたのです。親鸞聖人も、有阿弥陀仏というお弟子に「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」とお手紙をしたためておられます。親鸞聖人亡き後、有阿弥陀仏は、親鸞聖人と同じ阿弥陀如来のお浄土へ生まれることを楽しみに、自分に残された日々を、大切に過ごしていかれたに違いありません。私達も、親鸞聖人と同じ阿弥陀如来のお浄土へ生まれていくのです。そのことを、親鸞聖人は、時を超えて教えてくださっているのです。黄泉の国に向かっている人生に、どれほどの価値があるというのでしょうか。生きることも、お浄土へ向かっていると聞かせていただいたなら、どんな人生であっても有難いはずです。
仏様のみ教えによって、自分の生と死を大切に味わっていくところに、本当の喜びは訪れてくるのでしょう。
先日、お寺のお掃除の折、ある御門徒の奥様と次のようなお話をさせていただきました。
住職
「いつも、御家族の看病などでお忙しいのに、よくお寺にお参りされて、ありがたいですね。」
奥様
「主人とお婆ちゃんの看病で、本当に忙しいです。腹が立つ時もありますが、お念仏申しながら、毎日を過ごしています。でも、主人が病気になって、看病させてもらう中で、気づかせていただくことがたくさんあります。今まで、当たり前に思っていたことが、ありがたいことだったことに気づかせていただきます。苦労がなかったら、気づかなかったことばかりです。天国が、なぜ迷いの世界なのか、ずっと疑問に思っていましたが、何もかも満ち足りた天国に住む人は、本当の幸せには気づかないのかなと思うんです。御院家さん、こんな受け止め方は、間違っていますか?」
仏教では、悟りの世界に対する迷いの世界を六つに分けて示されます。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上がそれです。この中、天上と示されるものが、一般的に天国と呼ばれている世界です。キリスト教でも、神の国を天国と表現しますが、日本人一般が、天国という時は、仏教の天上に近いイメージを連想していると思います。キリスト教の天国は、神の愛が実現していく世界です。それは、純粋に苦しみや悲しみが神の愛によって癒されていく世界です。それに対して、仏教で示す天国は、楽しみが満たされていく世界です。すべてが、満ち足り、自分の思い通りになっていく楽園の世界です。一般的に、親しい方が亡くなって、「天国で見守ってください」などと言う時は、楽しい楽園をイメージされているのではないでしょうか。
しかし、この楽園もまた、迷いの世界であることを、お釈迦様は、教えておられるのです。実は、この六道と呼ばれる迷いの世界は、人間が、とるべき可能性のある姿を大きく六つに分けて示されたものなのです。決して、死後の世界のものとしてだけ、示されたものではありません。私達は、人間の姿をしているからといって、必ずしも人間の世界に生きているとは言えないところがあります。人間でありながら、憎しみ合い傷つけあっていく修羅の世界に生きる人もいます。また、人間でありながら、恥ずかしさを感じず、欲望のままに振る舞う畜生の世界に生きる人もいます。本当に地獄なんてあるのですか?という人もいますが、その人も、本当に苦しみ極まった地獄としか呼べない世界に堕ちていく可能性は、充分にあるのです。そんな中、楽園である天上の世界に生きる人もいます。人生に苦しみを感じず、全てが満ち足りた世界に生きる幸せな人がいても不思議ではありません。しかし、その楽園のような世界も永遠には続きません。終わりがあることを知らされるとき、楽園喪失の苦しみは、他とは比べようがないといいます。人生が、楽しみに満ちている人ほど、老いや病、そして、死んでいくことは、非常に深い苦しみとして襲ってくるのではないでしょうか。
親鸞聖人は、晩年、「さはりおほきに徳おほし」という言葉を残しておられます。氷が多ければ、溶け出す水が多いように、苦しみが多いからこそ、それによって教えられ、育てられるお徳も多いという意味です。人生における克服すべき課題は、私の欲望を思い通りに満たしていくことでは、決してありません。満ち足りた楽園である天上もまた、深い苦しみをもたらす世界なのです。欲望に振り回され、縁によって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の世界を経巡っていく、そんな私のどうしようもない不安定さを救い取りたいと願われ、立ち上がられた働きが、阿弥陀如来なのです。それ故に、阿弥陀如来のお慈悲は、私が抱える苦しみの中に働きます。悲しみや苦しみがあったからこそ、阿弥陀如来の温かいお慈悲に出会えたのです。
悲しみや苦しみが、ありがたい仏縁となってくださるところにお念仏の尊さがあります。お念仏申していく日々を大切にさせていただきましょう。
先日、ある御門徒の葬儀の折、次のようなことがありました。
還骨初七日の法要も終わって、車に乗り込もうとした時です。お見送りに出てくださったご家族の方々が、五歳のお子さんを囲んで、ひそひそとお話をされていました。
「〇〇君、御院家さんに聞きたいことがあるんでしょ。聞いてみなさい。ほら。」
こんなお話が聞こえてきました。恥ずかしそうにしている五歳のお孫さんの質問を、奥様が代わって聞いてくださいました。
「人は、死んだら、どこいくの?って、御院家さんに聞きたいらしいんですけど、、、」
とても素直な質問に、即座に「お浄土」と答えようと思いました。しかし、お浄土の意味も分からない子どもに、それだけを伝えて帰るのも申し訳ないと思い、「如来様に聞いたら分かるからね。お寺に遊びにおいでね。」と答えました。にこにこしながら、「またきてね」と手を振ってくれた姿が印象的でした。
自分自身の死を見つめることが出来るのは、生きとし生けるものの中で、人だけだといいます。人だけが、自分が死ぬことを知っているのです。お釈迦様の出家も、死人を目撃したことが大きな動機の一つとされています。自分自身が、死ぬことを思った時に訪れる言い知れない不安と恐怖は、人間なら誰もが抱えるものです。それは、子どもでも大人でも同じように抱えています。それを適当に誤魔化して生きるか、真剣に向き合うかの違いです。大抵の人々は、誤魔化して生きるのではないでしょうか。みんな死んできたのだから、何とかなると思っているのかもしれません。しかし、果たしてそうでしょうか。人は、目覚めない限り、どうにもならない惨めな存在のように思われます。
この問題と真剣に向き合い、乗り越えてきた人々の歴史が、仏教の歴史でもあるのです。親鸞聖人は、自分自身の死を「往生」という言葉で受け止めていかれました。「往生」というのは、「往き生まれる」という意味です。阿弥陀如来のお浄土に往き生まれることを「往生」といいます。死んでいくことを、生まれるとは、いったいどういうことでしょうか。私達にとって、「生まれる」と「死ぬ」とは、真反対の出来事です。「死ぬ」ことをつかまえて、「生まれるんだよ」と教えられても、納得できるものではありません。「生まれる」といえる根拠は、どこにあるのでしょうか。
法然聖人は、そのことを「かの仏願に順ずるが故に」と答えていらっしゃいます。阿弥陀如来が願っていらっしゃるからだというのです。阿弥陀如来というのは、『仏説無量寿経』に、その誕生の説話が説かれています。法蔵菩薩という名のある王子が、世自在王仏という仏様に会い、感動し、四十八通りの願いを起こします。そして、果てしなく永い時間をかけた修行の末、その願いが成就し、阿弥陀如来と呼ばれる仏様となったというのです。この説話が、私達人間にとって、どんな意味を持つものであるのかを、二千年以上の時をかけて、人類は、向き合ってきたのです。この『仏説無量寿経』の説話は、仏をして仏たらしめているものが、何であるのかが示されています。それは、「大慈悲」です。あらゆる命あるものを、慈しみ悲しんでいく姿です。お釈迦様の出現は、この大慈悲に、世界が包まれていることを教えるところにあったと見抜いていかれたのが、法然聖人や親鸞聖人です。
この私も、如来から深く慈しみ悲しまれています。大きなお慈悲の目当ては、他ならないこの私自身なのです。その如来が、この私に「お前は、私の国に生まれる仏の子だよ」と呼び続けてくださるのです。これは、自己をもった人の言葉ではありません。あらゆる命あるもののために在り続ける大慈悲が告げる言葉なのです。親鸞聖人は、この大慈悲が告げる言葉だから、真実なのだと教えられます。そこには、ただ、深い慈しみと悲しみしかないからです。自己の利益のためにということが微塵もないのです。
他人のことは分かりません。しかし、この私の耳に、如来の言葉が届いている以上、私の命の行く先は、お浄土しか有りえません。お寺とは、この大慈悲が告げる言葉を聞かせていただく場所です。一人ひとりが、大切に聞かせていただきましょう。