先日、ある御門徒のご法事のお斎の席でのことです。少しお酒も入り、席が和んできた頃、お隣に座っておられた男性の方と、次のようなお話をさせていただきました。
男性
「御院家さん、私は、中学生の頃、川で溺れた同級生を飛び込んで助けたことがあるんですよ。」
住職
「すごい御経験をされていますね。」
男性
「今でもね、忘れられないんですが、助けられた後、その溺れていた子が、私に言った最初の言葉が、何なのか分かりますか?」
住職
「やっぱり、命を助けられたんですから、お礼の言葉じゃないんですか?すごく感謝されたでしょう。」
男性
「そう思われるでしょ。それが違うんですよ。人間ね、命のかかった時には、お礼の言葉なんか出ませんよ。その子は、助けられた時に『お母さ~ん』って叫んだんですよ。びっくりしました。私も、子どもの父親ですけどね、お母さんって、やっぱりすごいなと思いますよ。」
とてもうれしそうにお話してくださったのが、印象的でした。お話を聞かせていただいて、浄土真宗のお念仏のみ教えと繋がるところがあるなと思わせていただいたことでした。
なぜ、念仏を称えるという極めて易しい行いによって、重い罪業を抱えた人間が救われていくのでしょうか?私達人間の在り方は、お悟りを開いた仏様から見ますと、重い病気を抱えた重病人のような存在です。病状が重いほど、治療は難しく時間がかかるのは、当然のことでしょう。それ故に、仏教では、様々な難しい修行が、時間をかけて勧められているのです。それが、念仏を口に称えるという、誰にでもできる極めて単純な行いだけで、時間をかけずに重い病状が改善していくと教えているのが、浄土真宗という仏教なのです。約八〇〇年前、このお念仏のみ教えを、初めて公に説かれた法然聖人を、仏教の常識のある学僧の方々は、口をそろえて、そんなことはありえないと批判し、それがやがて、仏教史上に大きな傷を残す宗教弾圧へと広がっていくことになります。
しかし、当の法然聖人自身も、四十三歳まで、お念仏のみ教えが、どうしても納得できなかったといいます。それが、確信に変わったのは、阿弥陀如来の願いが、そうであったからでした。法然聖人は、阿弥陀如来が願われている通りに、ただ口にお念仏させていただきなさいと一途に教えられたのでした。その法然聖人の教えを受けた親鸞聖人は、さらに、その教えを進めて、「南無阿弥陀仏」という言葉そのものに、阿弥陀如来の願いが込められてあることを教えていかれます。私達が、念仏を称えることを、どこか遠くで願っているのが阿弥陀如来ではなくて、阿弥陀如来は、私達が称える「南無阿弥陀仏」という言葉になっておられ、言葉の仏様が阿弥陀如来であるとお説きくださったのです。親鸞聖人のお念仏は、一声一声に阿弥陀如来の慈愛が私に満ち満ちていくようなものだったのです。完全治癒が難しい重病人は、決して見捨てられる存在ではなく、むしろ阿弥陀如来様から愛され、決して見捨てることのできない存在だったのです。その事実を私に告げているのが、「南無阿弥陀仏」であるというのです。私が称えるという易しい行いによって救われるのではなく、仏様の慈愛によって救われていくのです。
言葉というのは、人を傷つけたり癒したりする力を持っています。「お母さん」という言葉は、子どものことを一途に想う母親の純粋な愛情が言葉となったものです。溺れていく中で、「お母さん」の名を呼ぶ子どもは、お母さんから愛されている子どもでしょう。しかし、人間境涯の愛情には限界があります。名を呼ばれながら、何もしてやれない母親の悲しみが人間にはあります。それに対して、仏様の愛情には限界はありません。たとえ死んでいく時であっても、決して一人にはさせないと呼んで下さるのが南無阿弥陀仏です。いつでもどこでも、仏様は言葉になって私に寄り添ってくださるのです。大切にお念仏させていただき、味わい深い毎日を過ごさせていただきましょう。