先日、ある御門徒のご法事でのことです。当家のご長男がご結婚されたとのことで、ご親戚への披露も兼ねて、新しいお嫁さんも、初めて当家のご法事にお参りをされたのです。慣れない中にも、きちんと仏婦式章を着けられて、ご法事の席に座られている姿はありがたいものでした。お勤めとご法話が終わり、御当主から順番にお焼香をしていただきました。御当主、奥様、ご長男、、、と順番に続き、お嫁さんの順番になりました。お香を一つまみ香炉に入れ、お念珠を手にかけ、合掌し礼拝されました。ここまでは、誰でも出来る普通のことでしょう。しかし、驚かされたのは、合掌された時に、声に出してお念仏を何度も申されたことです。このお嫁さんは、浄土真宗のお念仏が聞こえるご家庭で育ってこられた方なのかなと嬉しく思いました。
ところが、実際はそうではなかったのです。お斎を囲みながら、そのお嫁さんに、ご実家の御宗旨をお尋ねしました。すると、浄土真宗ではなく、真言宗でした。しかも、お父様は旦那寺の檀家総代を務めておられるということでした。真言宗というのは、弘法大師空海が開かれた仏教です。念仏も唱えますが、ご本尊は、阿弥陀如来ではありません。大日如来です。そして、口にはマントラとも言われる大日如来の真実の言葉を唱えます。しかも、密教といわれるように、そのマントラは一子相伝です。基本的に、師匠が認めた弟子にしか教えません。誰にでも教えられるような軽いものではないからです。これだけでも、浄土真宗とは、かなり雰囲気が違うことが分かります。もちろん、お念珠のかけ方やお焼香の作法も全く異なります。
どうして、浄土真宗のみ教えに順った作法を滞りなくされたのでしょうか。そのことが疑問になり、お嫁さんにお尋ねをしました。すると、とても有り難いお答えが返ってきたのです。それは、素直に真似をしたというものでした。つまり、浄土真宗の作法が分からないお嫁さんは、自分より先にお焼香をされる方々の動きを一生懸命に見ていたというのです。お義父さん、お義母さん、ご主人、三人共が口に「なまんだぶつ・・・」とお念仏を称えながら合掌礼拝をしていたから、自分も、そのようにさせていただいたというのです。簡単なことのようですが、これが大変難しいことなのです。
念仏を口で称えることを、法然聖人は「易行」と申されました。それに対し、山に籠り厳しい戒律を保ちながら行う行を「難行」と申されました。千日回峰行などの修行に比べれば、念仏は、老いも若きも女性でも男性でも、誰にでも行うことのできる易しい行だからです。しかし、親鸞聖人は、阿弥陀如来の願いを素直に聞き、素直に念仏していく心の有り様を「難信」と申されています。念仏を称えるという行いは、誰にでもできます。しかし、念仏を称えるという生き方を素直に受け入れていくことは、決して易しくはない、難しいというのです。人は、素直になることが、実は一番難しいのです。
仏教というのは、一度聞いてパッと理解できるものではありません。お釈迦様の言葉は、2500年もの年月を掛けて、数知れない多くの人々が、その内容を探求し続けてきたのです。仏様の教えの言葉は、想像を絶する深みをもっています。深みを持った言葉は、理屈よりも感性に響いていくのです。しかし、理屈のみにこだわり、自分に理解できなければ、それはつまらないものと判断していく人が、案外多いのではないでしょうか。
蓮如上人の時代、ある人が、仏法を何度聞いても、カゴの中に水を入れたように、何にも頭に残らないことを、蓮如上人に相談された方がおられたようです。その悩みに対する蓮如上人のお答えは、「その篭を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし。」というものでした。私が仏法をものにするのではなく、仏法の中に私自身を浸しておくのだというのです。これは、素直に教えられたように身を預けていくということです。仏様からお念仏申しなさい、と教えられれば、素直にお念仏を申せばよいのです。仏法を聞きなさい、と教えられれば、素直に聞けばよいのです。人の言葉は、疑ってかからないと危険です。人の言葉を鵜呑みにするのは、危険なことです。しかし、仏様の言葉は、疑ってはいけないのです。鵜呑みにしなければ、何も響いてこないのです。
仏様の言葉を鵜呑みにした人の姿の上には、尊い薫りが遺ります。お嫁さんは、親子で素直にお念仏を申される、その姿の上に、理屈ではない尊い薫りを感じとられたのでしょう。人から人へ仏法が伝わっていく尊いご縁に遇わせていただきました。