先日、ある御門徒のご法事で、何気なく次のような会話を耳にしました。
「あなたのところは、ご夫婦が揃っておられてよろしいですねぇ」
「まぁ、おかげさまでね、私も主人も、どうにか元気にさせてもらっています。でも、私の周りも、ほとんどがご主人を亡くされて、奥様だけという方が増えましたよ」
「私も、主人を亡くして大分経ちますけど、いなくなってから、主人のありがたみをすごく感じるようになりました。いた時には当たり前だったんですけどねぇ。もっと大事にしておけばよかった(笑)」
何気ないご婦人方の会話でしたが、「有難味(ありがたみ)」ということについて、ふと考えさせられたご縁でした。
仏教は、煩悩を否定します。煩悩が消えて亡くなったところに、本当の幸せがあることを教えています。これは、人間が一般的に持つ幸福観を否定するものです。私達は、自分の願いや欲望が叶うところに幸せがあると思っています。自分の思うがままに生きたいというのが、誰もが抱える本音ではないでしょうか。
しかし、お釈迦様が「人生は苦である」とお説きくださったように、生きるというのは、思うがままにならないことを抱えていくことに他なりません。根本的に、どれほど願いを叶え、欲望を満たしたとしても、年老い、病に侵され、死んでいくという苦しみから逃れることはできません。避けることが根本的にできないものを避けようとするところに、さらなる苦しみが重ねられていくのです。
本当の幸せや喜びというのは、人を押しのけてまで求めるものではなく、普段、私達が当たり前のこととして意識していない中に既にあるのではないでしょうか。それを意識していく心の動きを、仏教では「恩」といい、この「恩」という心を最も大切にしてきた仏教が、浄土真宗なのです。
本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人は、「御恩報謝の念仏」というものを、非常に大切にお説きになりました。浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、法然聖人が説かれた称名念仏を、様々な角度から明らかにされています。「御恩報謝の念仏」もその一つですが、親鸞聖人が明らかにされた念仏の意味は、それだけに限るものではありません。しかし、蓮如上人は、御門徒の方々に対して、「御恩報謝の念仏」に限るような説き方をされています。それだけ、御門徒の方々に大切に味わってほしいと願っておられたということでしょう。
「御恩報謝の念仏」というのは、簡単に言えば、口に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・」と称えることは、阿弥陀如来に対して「ありがとうございます」とお礼を申していることだということです。この「お礼を申す」ということが、「恩」という心の動きがある証拠です。「恩」という字は、因果の因を心で支え受け止めている形をしています。今の私は、様々な因の積み重ねで出来上がっています。考えてみますと、今まで生きてきたというのは、よっぽどの恵みと善意の中で生かされてきたことに他なりません。それを当たり前のこととして、自分の欲望を満たそうと生きるのではなく、自分の心の上にこれまでの恵みと善意の有難味をいただいていく心の姿を「恩」というのです。
浄土真宗の念仏が、「御恩報謝の念仏」だというのは、すでに如来様の慈しみと恵みの中にある私だからです。何かを求めるための呪文ではなく、私がどれほどの慈しみと恵みの中にあるのかを知らせようとする働きが念仏であり、南無阿弥陀仏と口に称えることは、その慈しみと恵みに抱かれ、深い喜びに包まれながらお礼を申していることになるのです。
今を喜び、今に満足し、今を生きることを教えるのが、浄土真宗のお念仏の道です。お浄土は、その積み重ねの先に開かれてくる世界です。自分を本当に支えているものは、自己主張しません。当たり前のように、そっと私に寄り添っているものです。たいがいは、なくなってから、その有難味を知ることが多いのでしょう。しかし、それもまた、人生における大切な気づきです。
「我、縦鼻横眼なるを知る」、これは南宋にわたり、修行し得た悟りの境地を語った、曹洞宗の開祖、道元禅師の言葉です。鼻が縦についている、目が横についている、その尊さを知ったという意味です。浄土真宗に限らず、本物の仏教は、当たり前の中に、深い喜びと感動を見出していくものなのでしょう。当たり前の日々が、そのまんまで深い感動と喜びに包まれていく、そんな尊い日暮らしを、お念仏申す中にいただいていきたいものです。