『仏説阿弥陀経』に何度も出てくる「舎利弗(しゃりほつ)」という言葉について

先日、ある御門徒のご法事で、『仏説阿弥陀経』に何度も出てくる「舎利弗(しゃりほつ)」という言葉について、お尋ねがありました。これまでも、多くの方がお尋ねになられた質問です。

答えは簡単です。舎利弗というのは、人の名前です。お経には、人の名前がたくさん登場します。『仏説阿弥陀経』にも、舎利弗の他に「摩訶目?連」や「摩訶迦葉」、「摩訶迦旃延」や「羅?羅」などの人の名前が、たくさん登場しています。お経に登場するこれらの方々は、全員、お釈迦様のお弟子の方々です。難しい漢字で書かれていますが、全員がインド人です。舎利弗は、本来、パーリ語でサーリプッタ、サンスクリット語でシャーリプトラという名前です。お経を中国語に翻訳する時に、似た音の漢字を充てて表記したのです。

これらのお経に登場する多くの方々は、皆、その場でお釈迦様のお説教を聞かれていた方々なのです。どういう方々が、このお経を聞いておられたのか、また、お釈迦様は、どんな風にこのお経を説かれたのか、こんなことを、直接お釈迦さまからお説教を聞かれた多くの方々が、後に集まって、確認しながら書き残されたのです。『仏説阿弥陀経』に何度も「舎利弗(しゃりほつ)」の名前が登場するのは、お釈迦様が、何度も「舎利弗よ…」「舎利弗よ…」と舎利弗に呼びかけながら、このお経を説かれたからです。

『仏説阿弥陀経』には、阿弥陀如来と、そのお浄土のこと、また、十方世界のあらゆる仏様方が、口をそろえて阿弥陀如来のお徳を讃えていることが説かれています。なぜ、多くのお弟子が聞かれている中で、舎利弗だったのでしょうか。仏様のお心を推し量ることなどできませんが、舎利弗は、多くの仏弟子の中でも智慧第一と讃えられる方です。お釈迦様の教えられることを、何でも理解されたといいます。最も頭脳明晰で優等生タイプのお弟子が、舎利弗という方です。

『仏説阿弥陀経』は、読誦する時、前半と後半に分けて読誦しますが、後半の初めは、「舎利弗よ」とお釈迦様が、舎利弗に呼びかけ、お尋ねになられるところから始まります。

「舎利弗、なんぢが意においていかん、かの仏をなんのゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も、無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。」

 お釈迦様が、智慧第一の舎利弗にお尋ねになります。「舎利弗よ、かの仏を、どうして阿弥陀と申し上げるのか、あなたは、どう思いますか?」と。その後に続くのは、舎利弗の答えではありません。お釈迦様のお答えなのです。これは、智慧第一の舎利弗でも、仏様の領域のことは、お答え出来なかったことを示しています。名だたる仏弟子の中でも智慧第一と讃えられる舎利弗をもってしても分からなかったことが、お経には記されてあるのです。時折、「お経も現代語訳してもらったら分かりやすいのに…」とおっしゃる方がいますが、そんな単純なことではないのです。お経の言葉というのは、紛れもない仏語ですから、一言一言に底知れない深みを含んでいるのです。そうでなければ、二千年以上も読まれ続けたりはしないでしょう。

阿弥陀如来の阿弥陀如来たる所以は、光明と寿命が無量であるところにあると、お釈迦様は、お答えになられています。光明に限りがないというのは、阿弥陀如来のあらゆる命を慈しみ愛する心の働きが、あらゆる世界に行き渡ることを意味しています。どんな場所、領域、姿形でも、阿弥陀如来に愛されない命はないのです。また、寿命に限りがないというのは、どんな時代、どんな時間に生きる命も、阿弥陀如来の慈愛に包まれていることを意味しています。人が起こす愛は、自分に関わりのある空間と時間に限られています。阿弥陀如来の阿弥陀如来たる所以は、その空間と時間からはみ出て、どこまでも、いつまでも広がり続ける底なしの慈愛の働きそのものであるところにあるのです。

お経というのは、人の領域では推し量ることのできない清浄無垢な仏様の領域から紡ぎだされた珠玉の言葉なのです。ただ、頭を下げて聞かせていただく他ありません。はからいを交えず、素直に聞かせていただきましょう。

2015年6月1日