以前から、ご法事等でよく聞かれる質問があります。先日も、ある御門徒のご法事でご質問をいただきました。
「前から不思議に思っていたのですが、お寺様は、いつも玄関からではなくて、縁側から入ってこられるのはどうしてですか?」
今まで、ご質問いただいた中で、一番多かったのは、これかも知れません。現在では、縁側から家に上がるのは僧侶だけになってしまいましたが、昔は、様々な場面で縁側から家に上がることがあったようです。時代と共に、その習慣がなくなっていき、僧侶が縁側から家に上がることが、特別なことになってしまったのでしょう。
例えば、昔は、結婚式も、その家の仏間で行われたことが多かったようです。昔の結婚というのは、現在よりも、その家の家族になるという意味合いが強かったように思います。お嫁に入る女性は、結婚式の時、玄関からではなく、縁側からその家に入ったといいます。なぜ、お嫁さんは、縁側から家に上がっていたのでしょうか?それは、その家のお仏壇に最も近い入口が、縁側だったからでしょう。お仏壇というのは、家庭生活の中心になるものです。元は他人同士が、一つ屋根の下で暮らすのです。育ってきた環境が違うのであれば、様々な価値観が違うのは当たり前のことです。家庭生活というのは、安らかな日々を淡々と送れるわけではありません。それぞれが、自分の都合を貪り合い、相手を傷つけていくこともしばしば起こります。そんな危うい家庭生活の中で、自分の都合を貪る姿の恥ずかしさを教え、お互いに思い合っていく安らかな心を育んでいくのは、如来様の大悲を置いて他にありません。昔の方々は、当家の家族に挨拶することよりも、これから始まる新しい家庭生活を、如来様の大悲に頭を下げるところからスタートさせようとされたのでしょう。
また、これは、結婚の時だけではありません。お嫁さんがお里で出産され、赤ちゃんを連れて当家に戻られる時にも、縁側から家にあがられたようです。これも、まず、授かった子どもと一緒にお仏壇の前に座らせていただくためです。子どもは、如来様から授かった命です。如来様にお礼を申すのと同時に、これから、同じ如来様に抱かれた者同士、阿弥陀如来のお慈悲の中で、決して離れることのない本当の親子にならせていただくのです。
そして、今生の縁が尽きて、その家を出ていく時も、やはり、玄関からではなく縁側から出ていきます。これは、現在でも残っている習慣です。今でも、自宅で葬儀や通夜を勤め、出棺する時、お仏壇に最後にお礼を申して、縁側から外に出ていくはずです。縁側というのは、文字通り、家の中でもご縁が恵まれる側なのでしょう。
以前、ある布教使の先生が、おもしろいことを教えてくださったことがありました。あるお寺の御門徒が、「私のところの住職は、ご法事に来られても、挨拶を無視するんです」とお怒りのご様子だったそうです。しかし、よくよくお話を聞かせていただくと、その御住職は、無視しているのではなくて、お仏壇に手を合わせていたのです。当家の家族よりも先に、当家のお仏壇に手を合わせ頭を下げるのは、仏教徒としてのマナーです。御住職が、当家に御挨拶されるのは、お仏壇に手を合わせた次のことです。しかし、御住職が、お仏壇に手を合わせて振り返った時には、当家の方は、御住職に無視されたと思って、御住職の方を向いておられなかったのでしょう。こうしたお話をして差し上げると、お怒りだったその方も「そうだったんですか。はじめて、そんな話聞きました。」と驚いておられたそうです。
私達は、人と人との間だけで日々を過ごしていると、大切なことに気づかずに虚しくなっていきます。人の目ではなく、仏様の目の中で過ごさせていただくのが、仏教徒の生き方です。あらゆる命を慈しんでいらっしゃる如来様の大悲を、目に見える形にして伝えてくださるお仏壇を横目に、人に先に頭を下げるのは、仏教徒として恥ずかしいことです。
縁側から家に上るというのは、人と人との間で出来上がった常識の上からすると、おかしなものに映るかもしれません。しかし、そこにも、阿弥陀如来を敬う人々の尊い姿があったのです。仏教徒として、仏様中心の日々を大切にさせていただきましょう。