先日、前々坊守と親しかった、ある御門徒の方から次のような思い出話を聞かせていただきました。
「昔、文子坊守と地域の旅行にご一緒させていただいたことがありました。色々なところを観光で巡る旅行でしたが、訪れた中に有名な神社がありました。私は、神社でお参りする作法通り、柏手を打ってお参りしたのですが、文子坊守は、手を合わせて南無阿弥陀仏とお念仏されていました。それを見て、私は驚いて、文子坊守に『こんなところでお念仏してもいいんですか?』と思わず尋ねたのです。そうすると、文子坊守が、にっこりされて『いいんですよ』とおっしゃいました。その時、はっとさせられたことが、今でも忘れられないんです。」
宗教と言うのは、「宗となる教え」ということですから、その宗教を信じるものは、その教えられるものを、日常生活の中核に据え、物事の価値判断をしていくことになります。ですから、信じる宗教によって、物事の価値も変わってきますし、生活の様子も随分違ってきます。仏教徒とイスラム教徒とでは、物事の考え方や生活の様子がかなり違うのは、当然のことでしょう。こうしなさい、ああしなさい、これをしてはいけません、あれをしてはいけません、と教えていくのが、仏教に限らず、あらゆる宗教の姿でしょう。
その中で、浄土真宗のみ教えは、「ただ念仏しなさい」とだけ教えるものなのです。親鸞聖人は、詳しくみ教えを聞きに来られたお弟子の方々に対して「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(源空)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」と語られたと『歎異抄』が伝えています。ただ念仏して、阿弥陀如来様に助けていただきなさい、と教えられた法然聖人のお言葉を信じて、お念仏させていただいているだけで、他に特別なことはありません、とおっしゃるのです。他に、こうでなければならない、ああしなければならない、ということはなく、ただお念仏のできる日暮しを送りなさいと教えられたのが親鸞聖人なのです。
では、「お念仏する」とは、どういうことなのでしょうか。言葉というのは、必ず出所となった心があります。心のないところに言葉はありません。悪意から紡ぎだされた言葉は、人を傷つけていきます。優しい心から紡ぎだされた言葉は、人を癒していきます。そんな中で、いつまでも消えずに、人の命を支え続けるような言葉があるのです。それが、仏様の心から紡ぎだされた言葉です。お経というのも、仏様の心から紡ぎだされた言葉ですが、二五〇〇年もの間、消えることなく人々を支え続けています。同じように、お念仏も、阿弥陀如来が、私のために紡ぎだした言葉なのです。阿弥陀如来が、私のために紡ぎだした言葉は、たった一言です。その一言によって、私は救われていくのです。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀如来の私を慈しみ願う純粋な親心が言葉となって零れ落ちたものなのです。
お念仏というのは、その時その時の私を包み込み、呼び覚ましていく阿弥陀如来の働きです。どんな時の私をも阿弥陀如来は、決して見捨てることなく愛し慈しみ続けます。いつ、どこで、どんな風に称えても、阿弥陀如来のお慈悲は、お念仏となって響き続けるのです。親鸞聖人が、「ただ念仏して」と教えてくださったのは、こんな心持ちで、こんな場所で、こんな時に、といった条件がないことをお示しくださっています。お念仏は、いつでも、どこでも、どんな風にでも称えていいものです。いつでも、どこでも、称えるまんま、阿弥陀如来に抱かれている私が知らされていきます。
神社や教会でも、また、他宗派の葬儀やご法事でも、お念仏を称えてはいけない場所などありません。周りの人が気になるのであれば、自分の耳に聞こえるほどに称えさせていただければよいのです。普段、如来様のことなど忘れて、自己中心の日暮しを送りがちな私が、お念仏させていただけるのなら、他の宗教もまた、私を導いてくださる尊い仏縁となることでしょう。
お念仏は、私の人生を支えるバックボーン(背骨)です。背骨は、二本以上いりません。様々な価値観の中にも、お念仏に導かれる人生の日暮しをさせていただきましょう。