先日、ある御門徒の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。
「御院家さん、主人が、先日から入院しました。病室で付き添っている間、会話もあまり出来る状態ではないですから、時間を持て余してしまいました。何か、本でも読もうかとも思ったのですが、写経をさせてもらおうと思い立ちました。ちょうど、家に蓮如上人の『御文章』のひらがな版があったので、病室で『御文章』を写しています。昔も今も、人って変わらないんですね。五百年も前の人に向けて書かれたものなのに、今の私に向けて書かれているような思いになります。」
蓮如上人(れんにょしょうにん)という方は、本願寺の第八代御門主で、親鸞聖人の直系に当たる方です。親鸞聖人の時代から、約二〇〇年経過した室町時代に活躍されました。浄土真宗のみ教えは、この蓮如上人によって、日本全国に広められたのです。『御文章』は、その蓮如上人が、浄土真宗のみ教えを正しく御門徒の方々に届けるために書かれたお手紙です。交通面も通信面も、何も発達していない時代に、わずか数年の間に、日本中に浄土真宗のみ教えが行き渡ったのは、この『御文章』による伝道が大きく貢献したからです。
現在、蓮如上人の直筆と認められる『御文章』は、二百五十二通残っています。実際に書かれたものは、それ以上にあったことでしょう。はじめて書かれた『御文章』は、寛正二年という年に書かれました。蓮如上人四十七歳、本願寺の御門主に就任されて、すでに四年が経過していました。この年は、寛正の大飢饉と呼ばれる大惨害があった年でもあり、また、宗祖親鸞聖人の二〇〇回大遠忌にあたる記念の年でもありました。この年、日本全国を襲った寛正の大飢饉は、記録によると、京都の都大路に餓死者の死体が累々と重なり、賀茂川に捨てられた死体は八万二千体を超えたとされています。その死体で賀茂川の水はせき止められ、京都の町には死臭がみなぎっていたそうです。そんな中、民衆の生命の安全を守るはずの将軍や大臣達は、自分達の権力闘争に明け暮れ、民衆の苦しみなど顧みようとはしません。また、延暦寺や興福寺などの諸大寺の僧侶達も、寺領荘園から年貢を徴収することに躍起になり、飢えた農民が土地を捨て逃げようとするのを、力づくで阻止しようとするばかりでした。心ある僧侶たちは、裕福な信者達を説得し、炊き出しをしますが、それも焼け石に水のような状況だったようです。僧侶にできることは、飢饉が治まるよう祈祷したり、死者の冥福を祈ることしかない状況だったのです。
そんな中、蓮如上人は、浄土真宗の法灯を継ぐ者として、自分が何をなすべきか、飢える民衆の群れの前に、必死で考え抜かれます。そして、この地獄のような世界に苦しむ人々の心に、阿弥陀如来の大悲の心を届けていく以外に、自分の生きる道はないと思い定め、『御文章』を書き始められたのでした。この『御文章』は、文字が読めない人が当たり前の時代、親鸞聖人のみ教えが、耳に聞くだけで、どんな人にでも分かるように書かれています。飢えて死んでいく悲しい現実から眼を背けることはできません。しかし、人は、飢えなくても死んでいくのです。死の縁は無量です。限りある命を恵まれた者が、その命を心豊かに生き抜き、心豊かに死を受け入れることのできる世界が、仏教の説く命の世界であり、とりわけ、どんな立場の人にでもその世界が恵まれていくみ教えが、浄土真宗だというのが、蓮如上人の信念でした。
この『御文章』によって、妙好人と讃えられる御門徒の方々が多く育っていきました。浄土真宗には十派の教団がありますが、妙好人と讃えられる御門徒を輩出したのは、『御文章』を拝読する西本願寺、東本願寺、興正寺を本山とする三派だけです。本願寺の流れをくむ御門徒のお家には、お仏壇と一緒に、必ずこの『御文章』が置かれています。それは、家の者が拝読するためにご先祖の方が、置かれたのです。
み教えというものは、豪華な御馳走と同じです。眺めているだけでは、意味がありません。しっかり、身と心で味わってこそ、価値があるものなのです。日々の生活の中、み教えを味わう日常を送らせていただきましょう。