先日、ある御門徒の葬儀の折、ご主人を見送られた奥様から、次のようなお言葉を聞かせていただきました。
「御院家さん、おじいちゃんが先に逝ってしまいました。長い間、お世話になりました。寂しいです、、、つらいです、、、、今まで、何十人と色んな方を見送ってきましたが、おじいちゃんを見送ることが、こんなにつらいとは、思ってもみませんでした。今までは、他人事だったんですね。私が、いつまでたっても我がままだから、如来様が、身をもってお諭しくださったんでしょう。なんまんだぶ、なんまんだぶ、、、」
死を悼むのは、人間だけではありません。アメリカのウィリアム・アンド・メアリー大学の教授で、自然人類学が専門のバーバラ・J・キング博士は、動物の悲しみについて、様々な角度から検証実験をしています。その結果が、日本でも翻訳され、『死を悼む動物たち』という一冊の文庫本となって出版されています。それによると、チンパンジーからカメに至るまで、実に命ある様々な動物が、家族や仲間の死を悼み、悲しみの感情を抱いていることが分かります。仲間の通夜をするカラスや、仲間のお墓に自分の大切にしていたタイヤをお供えするゾウの姿など、動物の中には、深い愛と深い悲しみとを抱いているものがいます。『仏説無量寿経』の中に、十方衆生と呼びかけられてあるのは、人だけではなく、あらゆる命が、悲しみを抱いていることを、仏様がすでにご存じであることの表れでしょう。
キング博士は、愛と悲しみを抱くという点において、動物と人とは変わりがなく、動物の心を軽んじ、人よりも劣った生き物と見ていく姿勢が間違ったものとした上で、人と動物の違いを、それぞれの種の個性として語っていきます。他の動物にはない人間特有の個性を、博士は、罪悪感にあるといいます。人は、自分自身が抱く悲しみの重さを知り、その心に現れた悲しみが、姿を変えていくことに気がついていくといいます。深い悲しみも、時間とともに、その姿を変えていきます。そして、悲しみが薄らいだ時、その人に対する思いも薄らいでいることに気がつきます。そこに、うしろめたさ、罪悪感を抱いていくのが、人だけが持つ個性だというのです。
親鸞聖人が、その主著『教行信証』の中で、畜生という境涯に生きる者の特徴として、『涅槃経』というお経の御文を引用されている箇所があります。それには、次のようにあります。
「慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」
慚愧(ざんぎ)という心の有無が、人と畜生との決定的な違いだといいます。その慚愧について、慚(ざん)とは、心に自らの罪を恥じ、人に対して恥ずかしいという思いを持つことであり、愧(ぎ)とは、人に自らの罪を告白して恥じ、天に対して恥ずかしいという思いを持つこととしています。自らの心の中を見つめ、人に対しても仏様に対しても、恥ずかしいという思いを持つのが、人だというのです。逆に、自分の心を見つめることがなく、恥ずかしいという思いを微塵も持たない者は、人ではなく畜生という境涯に生きる者だといいます。
自分の大切な者を愛し、失えば深く悲しんでいく、それは、どんな生き物でも抱いていく心です。だからこそ、仏様というのは、単なる悲しみではなく、あらゆる命を無限に悲しんでいく大悲を起こさざるをえなかったのでしょう。しかし、その中で、人というのは、心に抱いた愛と悲しみをそのままにせず、深く見つめる中で、何らかの意味を見出していきます。それは、自分の心に抱いた愛と悲しみを、大切にできるということでもあるでしょう。
考えてみますと、私の心から逃げ切ることはできません。私が私である限り、抱いた深い悲しみから逃げ切ることは出来ないのです。死んだら、、、と人は、勝手に考えます。しかし、虚しい滅びが、悲しみを解決していく道に、本当になるのでしょうか。単なる逃避は、逆に、別の大きな悲しみも生み、無限に続く迷いを生み出す悪行になることを、仏様は、お諭しされています。本当に人を正しく導く宗教というのは、人が抱く愛と悲しみの中に、正しい意味を教えていくものだと思います。
分かる、分からないではなく、自分ではどうしようもないことの意味を求め、悩みながら聞くのが仏法なのでしょう。愛と悲しみの中に溺れるのではなく、仏様のお慈悲の中に、人らしく、その愛と悲しみを大切に出来る毎日を送りたいですね。