仏様に育てられる喜びに満ちた毎日を送らせていただきましょう。

先日、ある御門徒の葬儀の後、ご遺族の方々から、故人の晩年のご様子について、大変味わい深いお話しを聞かせていただきました。

 「母は、晩年、とても穏やかでした。『もったいない』『ありがとうございます』ばかりを口にしていたように思います。病院の治療で痛みや辛さがある時には、看護師さんに腹を立てたりもしていましたが、必ず、落ち着いてから『ありがとうございます』とお礼を申していたようです。病院でも、よく手を合わせて、小さな声でお念仏を申しておりました。母自身の姿が、仏様のようでした。」

 仏教という言葉は、本来、「仏様の教え」という意味と「仏様に成る教え」という意味とがあります。この「仏様に成る」ということが、仏教の大きな特徴です。仏様というのは、私が教えられ、救われる働きであるのと同時に、私が成っていかなければならない目標でもあるのです。仏教徒というのは、本来、仏様の教えに従い、その仏様に成ることを目指して生きる者のことをいいます。

仏様とは、どんな存在なのでしょうか?『仏説観無量寿経』には、「仏心とは、大慈悲これなり」と説かれています。大慈悲という心を持っている存在が、仏様と呼ばれるものだということです。慈悲というのは、相手の幸せを純粋に願い、相手の痛みに共感していく心です。相手の幸せを純粋に願うというのは、お返しを一切求めないということです。ただただ自分を殺して相手の幸せだけを求めていく心です。そして、相手の痛みに共感していくというのは、子どもの悩みが、親の悩みになっていくように、命と命とが溶け合っていくような一体感を表す心です。私達は、自分の子どもや孫に対しては、この慈悲の心を起こしていくこともあります。子どもや孫が、死に関わる病気になった時、この子が助かるなら自分は死んでも構わない、と本気で思うことがあるのではないでしょうか。また、その子の痛みが、自分の痛みとなって、一緒に深く苦悩していくのではないでしょうか。このような私たちが起こしていく慈悲を小慈悲といいます。小というのは、私たちは、自分にとって大切な者に対してしか、この慈悲の心が起こせないことを表しています。

しかし、親鸞聖人は、「小慈小悲もなき身にて」と、この身内に対して起こしていく小慈悲さえも全うできない私だと言われます。考えてみますと、私たちは、自分の都合が邪魔されると、愛すべきものに対してさえ、腹を立てていくのではないでしょうか。そして、愛する者を失ってから、そのすえ通らない自分の不完全な愛情の前に絶望しなければならないのです。私たちの起こす慈悲は、一瞬で消えてしまい、すえ通らないのです。愛する者を幸せにしたくても、断念せざるを得ないことが、この娑婆世界は多すぎます。大切な方を苦しめてしまった、愛する者を何もできずに死なせてしまった、そんな悲しみを、誰もが人生の中で背負っていくのではないでしょうか。

親鸞聖人が、お浄土に生まれていくことを喜ばれたのは、楽ができる世界に生まれていくことを喜ばれたのではありません。仏様に成れることを喜ばれたのです。この世では、愛する者をどうしてやることもできなかった、そして、自分のことばかり考えて愛する者を苦しめてしまった、そんな小慈悲さえも全うすることのできなかった私が、今度は、大慈悲と呼ばれる、すえ通る本物の慈悲をもった仏様にさせていただけるのです。悲しむ人がいれば、必ずそこに私がいる、悩む人がいれば、そこに必ず私が寄り添っている、いつでもどこでも、私のいない時も場所もなくなるのです。たとえ、あなたが、どこにいようと、どんな状況にあろうとも、今度は、確実に私が、あなたを救ってやることができる、そんな仏様と呼ばれる身にさせていただけることを、親鸞聖人は喜ばれたのです。

人生というのは、そんな仏様になっていくためのお念仏の道場です。お念仏となって阿弥陀如来は、私を導き育ててくださいます。人生で味わう悲しみや喜びは、どれも私にとって、仏様に成るために必要な尊い糧なのです。お念仏申す中に、様々なことが起こる人生を、学びの道場として生きる方は、まさしく仏様のような人になっていくのではないでしょうか。「ありがとうございます」「もったいない」、これは、本当の喜びを味わっている人にしか言えない言葉です。決して私の思い通りにはならない人生ですが、愚痴や後悔ではなく、感謝と慚愧の中で、仏様に育てられる喜びに満ちた毎日を送らせていただきましょう。

2017年5月1日