仏法という宝物

先日、ある御門徒の百回忌のご法事にお招き預かった時、当家の奥様が、次のような悩みをお話くださいました。

「御院家さん、今日は、お忙しい中、ありがとうございました。ご覧のとおり、今日は、百回忌ということもあって、私と娘の二人だけでご縁に遇わせていただきました。親戚も歳をとりまして、お招きするのも難しくなりました。孫たちも、県外に出て仕事をしております。あの子たちにも、ご法話のご縁に遇わせたいのですが、何分、忙しいみたいで、それも叶いませんでした。普段、仏様とご縁のない生活をしているようですから、こういうご法事のご縁には、帰ってきてほしいのですが、難しいですね・・・」

 最近は、正法寺の御門徒の方々の中にも、若い世代の方と同居されている方は、本当に少なくなりました。江戸時代から続いてきた家制度も崩れつつあるように思います。全国的に、浄土真宗の寺院は、近年、過疎化が問題視されている農村や漁村に多いのが現状です。全国の多くの浄土真宗のお寺から、家の中でお念仏のみ教えが伝わらなくなったとの悲嘆の声をよく聞きます。寺院や僧侶も、時代の変化に応じて、み教えを伝えていく努力が必要とされています。

以前、仏教を教えてくださったある先生が、「キリスト教の宣教師などは、『教えを伝える』というところに重きを置くが、仏教は、『伝える』というところよりも『伝わる』というところに重きを置いてきたんですよ」とお話くださったことがありました。確かに、日本でも、キリスト教が伝わったのは、フランシスコ・ザビエルという宣教師が、日本にまで伝道に来られたことに始まりますが、仏教を初めに日本に伝えた方というのは、はっきりしていません。これは、日本だけではなく、中国でも東南アジアでも、最初に仏教を伝えた方というのは、はっきりしません。仏教というのは、本来、教えそのものの上に、必然的に伝わる働きをみていくものなのでしょう。

お釈迦様に関する故事に、実子ラーフラとの次のようなやりとりがあります。お釈迦様には、出家前に恵まれたラーフラという実子がいました。お悟りを開かれ、カピラ城に戻られたお釈迦様に息子のラーフラが、「宝物をください」とお願いをします。これは、母親のヤショダラが、釈迦族の王位継承権を正式に保証させるために仕向けたことでした。しかし、お釈迦様は、ラーフラに「壊れる宝がよいか、壊れない宝がよいか」と聞き返します。すると、子どものラーフラは、「壊れない宝がいい」と無邪気に答えました。それを聞いたお釈迦様は、「それなら、み教えを聴く身になりなさい」と言って、ラーフラをそのまま出家させたと伝えられています。

この故事は、仏教が、今日のように二五〇〇年もの間、伝わり続けてきた原点を教えてくださっているように思います。親が子や孫に願うのは、幸せになってほしいということでしょう。しかし、その幸せの求め方を、私達は、間違ってしまうのです。欲望が満たされることを幸せと感じ、欲を貪り、それを邪魔するものに腹を立て、それらに振り回されている間に、虚しく終わっていくのが、凡夫と呼ばれるものの悲しい性です。お釈迦様は、私が幸せになるための本当の宝物とは何であるのかを教えてくださっているのです。仏法という本当の宝物に出遇っていった人々は、自分が大切だと想う人々にも、その宝物を遺そうとされたのではないでしょうか。

私達が、このように仏様のご縁に遇えているのも、この私を想ってくださった多くの有縁の方々の尊い願いが働いたからに他なりません。仏様の教えの言葉は、たとえ貧しい中にあっても、苦難の多い人生であろうとも、胸を張って、生まれてきてよかったと自分の人生を豊かに喜んでいけるような世界を私の上に必ず開いてくださるのです。

お子さんやお孫さんに仏法を遺していきたいという願いは、真の仏弟子だけが起こすことのできる尊い願いです。

仏法という宝物を、その身に備えた方が放つ香りは、必ず有縁の方々を仏法へと導く、大きな力となっていくはずです。本当の幸せを子や孫に遺せる毎日を、大切に送らせていただきましょう。

2015年4月1日