先日、ある御門徒のご法事の折、次のような会話のやり取りがありました。
当主
「ご住職、ご存知でしたか?NHKの2チャンネルの番組で、『100分で名著』というのがあるんですが、先日、その番組で『歎異抄』が取り上げられていたんですよ。私、その番組を全部録画して、毎日、仕事に行く車の中で聞いているんですよ。」
住職
「知ってますよ。私も見ていました。あの解説をしておられた釈先生は、正法寺にもお越しいただいたことがあるんですよ。一般の方にも親しみやすいように、お話しされていましたね。」
当主
「善人よりも悪人が救われるということの意味を、私は、完全に誤解してました。あんな意味の言葉だとは、思いもしませんでした。」
親戚
「どんな意味なんですか?」
当主
「悪人というのは、特別に悪いことをした人のことではなくて、一般の人のことを言うらしいですよ。」
住職
「一般の人というか、親鸞聖人は、悪人という言葉をご自分のこととして受け止めておられるんですよ。」
親戚
「そうすると、自分以外は善人ということですか?私でも救われるんだから、他の人も必ず救われるということですね。」
住職
「それも、間違いではないですが、、、」
善人と悪人という言葉は、私たちの日常生活の中で頻繁に使われています。善悪の判断こそが、社会生活を営む上で最も大切なこととも言えます。子どもを育てる教育の現場でも、何が善いことであり、何が悪いことであるのか、その区別をはっきりと子どもに教えていかなければ、教育ということにはなりません。しかし、私達が、普段使う善悪の区別は、社会生活を営む上での区別にすぎません。つまり、みんなが平和で傷つかずに営む社会生活にとって、それを乱すような行いは、悪として裁かれ、刑事罰が与えられていきます。逆に、平和な社会生活を支え助長していくような行いは、善とされ褒賞が与えられていきます。人を殺すような人は、平和な社会生活を乱していく危険人物ですから、当然、悪人として裁かれていきます。しかし、一方で戦争中は、日本人の平和な社会生活を維持するために、敵国は邪魔な存在であり、悪となります。そうすると、悪である敵国の兵を殺すことは善なる行為とみなされ、褒賞が与えられていくのです。人を殺すという同じ行為が、その時の都合によって、善にもなり悪にもなるのが、人間の判断なのです。
仏教で問題にする善悪は、このようなものではありません。善なる行いというのは、仏教では、人や様々な命あるものを安らかに癒していく行いです。反対に、悪なる行いというのは、人や様々な命あるものを傷つけ苦しみを与えていく行いです。これは、一般的な道徳の上でも、同じことでしょう。しかし、自分自身が、悪を慎み善を行っていく正しい生き方が出来ているかどうかが、仏教では問われていくのです。親鸞聖人の上で、善人悪人の問題が大きく扱われているのは、それだけ親鸞聖人ご自身が、仏様の教えに素直に順い、正しく生きようと努めておられたからなのです。
親鸞聖人は、自分には、本当の善悪が何であるのかを判断できないとおっしゃいます。その上で、ご自身のことを悪人だとおっしゃるのです。それは、ご自身が、あらゆる命を区別せずに、深く慈しみ愛していく阿弥陀如来の広大なお心に貫かれたからです。阿弥陀如来の無条件の慈愛の前では、自分の都合に振り回される私は、恥ずかしい悪人です。親鸞聖人が、ご自身のことを悪人とおっしゃるのは、阿弥陀如来によって知らされた自分の姿のことなのです。親鸞聖人は、他人を指して善人だ悪人だとおっしゃることはありません。
善人よりも悪人が救われるというのも、仏様のみ教えを聞いて、正しく生きようと努める人の前に開かれる世界であって、興味本位に仏教の知識だけ得ようとする人には、理解しがたい理屈でしょう。仏教は、自分の上で味わってこそ、本当の意味が分かるのです。