ただ口に無量寿仏(阿弥陀仏)のみ名を称えなさい

先日、ある御門徒のご法事でのことです。お勤めとご法話が終わり、順次、お焼香をしていただいておりました。四十歳代の息子さんが、お焼香された時です。真後ろに座っておられたお母さんが、その息子さんに、一言、お声をかけられました。

「声に出して、お念仏申さないといけませんよ」

その息子さんは、気まずそうに、「はい」と一言返事をされ、小さな声でしたが、声に出してお念仏をされました。

仏教には、「善知識(ぜんちしき)」という言葉があります。具体的には、「この私を正しい仏法の道理に導いてくださる善き師」という意味で使われる言葉です。蓮如上人は、『御文章』の中で、阿弥陀仏の救いに預かるには、五つの絶対条件がそろわなければならないとした上で、この善知識との出会いを、第二番目に挙げておられます。
生涯の中で、人は様々な出会いを繰り返していきます。そして、それらの出会いは、その人の生き方に必ず何かしらの影響を与えていきます。人の心は、様々な縁によって育てられ、変えられていくものです。時には、悪知識に出会ったことで、人を殺めてしまうことも起こりえます。まだ、記憶に新しいオウム真理教の事件などは、その典型的な例でしょう。その様々な形の出会いの中で、仏法の道理に導き、正しく実りある人生の道を示してくださる善知識に出会えることは、本当に幸せなことだというべきでしょう。
しかし、その人が、善知識であるかどうかは、ずっと後になって、この私が仏法の道理に素直に頷けるようになり、素直にそれを慶べるようになってから分かることなのです。
『仏説観無量寿経』には、下品下生という位に位置づけられる極悪最下の凡夫が、臨終の間際に現れた善知識の勧めを、ことごとく断っていく様が説かれています。この下品下生の教説には、様々な深い意味が込められているのですが、一つには、極悪最下の凡夫が、いかに善知識に会いがたい身であるのかを示しているように思います。極悪最下の凡夫とは、自分が最も正しいと思い込み、怒り、腹立ち、嫉みなどの心に命を焼かれ、欲望の心に命を溺れさせていくような虚しい世界に生きる者をいいます。極悪最下の凡夫には、どんな言葉も虚しく聞こえていきます。例えそれが、自分自身を救っていく言葉だとしても、自分自身の強い我が邪魔をして、それに気づかせないのです。そして、私共、浄土真宗のみ教えを頂く者にとって大切なことは、親鸞聖人が、この極悪最下の凡夫を、ご自身のこととして味わっておられるということです。他でもない下品下生の教説は、私自身の姿を示すものなのです。
『仏説観無量寿経』の下品下生の教説では、この極悪最下の凡夫が、最後の最後に善知識の言葉をようやく受け入れていく様が、最後に説かれていきます。それまで、善知識のどんな言葉も受け入れなかった極悪最下の凡夫が、最後に受け入れた善知識の言葉は、次のものでした。

「なんぢ、もし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏を称すべし」

 現代語に言い換えると、次のようになります。

「もし、心に仏を思い描くことができないのなら、ただ口に無量寿仏(阿弥陀仏)のみ名を称えなさい。」

つまり、ただ口に南無阿弥陀仏と称えることを善知識は最後に勧めるのです。それを受け入れた極悪最下の凡夫は、口に十回お念仏を称えたところで息を引取っていきます。そして、その後、十二大劫という果てしない時間をかけて、自らの罪を悔い改め、阿弥陀仏のお育てを受ける身に変えられていくことが説かれています。

「声に出して、お念仏申さないといけませんよ」と息子さんに勧めたお母さん。
その勧めに「はい」と小さな声で頷いた息子さん。
その情景を前にして、私は、この『仏説観無量寿経』の教説を思い起こしていました。息子さんにとって、今はまだ、お母さんは、仰ぐべき善知識ではないかもしれません。しかし、そこには、確実に仏様の道が開けています。必ず、お母さんのことを善知識であったと手を合わせる日が来ることでしょう。そして、ご自身も善知識となり、お子さんやお孫さんに、仏法の慶びを伝えていく日が来るのではないでしょうか。二千年の時を経て、仏法のみ教えが私まで伝わってきたことの尊さ、有り難さを改めて感じたご縁でした。

2008年4月1日