今月は、ある本の紹介をしたいと思います。
最近、書店に立ち寄ることがあり、そこで一冊の本と出会いました。それは、『遊雲さん 父さん』という題名の本です。山口県周南市にある長久寺という浄土真宗本願寺派のお寺のご住職様が、小児がんによってご往生された十五歳の息子さん「遊雲くん」との三年間を、浄土真宗のお味わいの上から著されたものです。
有国遊雲君のご往生については、昨年十二月に朝日新聞・読売新聞・毎日新聞等において、大きく報じられましたので、ご存知の方もおられるかもしれません。私自身、何となく耳にはしていましたが、これまで、それほど気に留めることはありませんでした。しかし、この本の帯に記されている言葉がたまたま目に留まり、思わず手にとって読ませていただくご縁に恵まれたのでした。それが、以前、耳にした事があるお寺の息子さんの話だと知ったのは、手に取った後のことです。
その帯に記されている言葉は、次のものです。
「母さん、ありがとう。みんなにもありがとうって言ってね。ぼくは、もういきます。」
本文中では、遊雲くんが、この言葉を残したときのことが、次のように記されています。
「二日夜、あいまいになっていた昼と夜のはざまでふと目を覚ました折に、遊雲さんは言い残してくれた。
『もういいよ。母さん、ありがとう。みんなにもありがとうって言ってね。』
そして、
『ぼくはもういきます。』
・・・三日早朝、夜勤の看護師さんが血圧が下がっているのに気づく。そのまま、文字通り眠りの内に、午前三時四十分、静かに心停止。」
十五歳の男の子が、もうろうとした意識の中で、死を目の前に残した人生最後の言葉ですが、この言葉には、死を前にしても、どこか安心しきった穏やかな響きがあります。
親鸞聖人は、『歎異抄』の中で、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とお示しくださっています。少し難しい言葉ですが、簡単に現代風に言い直しますと、「私共、凡夫の世界は、全ての事柄が虚しいものばかりで、本当の意味で頼りとし、当てにできるものは何一つない。しかし、その中にあって、ただ念仏だけが、私の命を本当に支えてくださる唯一のものである」ということです。凡夫の世界は、裏切りと絶望の世界です。経験、家族、財産、地位や名誉、健康など、私どもが普段、当てにし、頼りとしているものは、死というものを前にしたとき、この私をいとも簡単に裏切っていきます。そして、その時、私の目の前に立ち現れてくるのは、救いではなく絶望です。私という不思議としか言いようのない命を、本当の意味で支えることが出来るのは、阿弥陀如来の大悲心から出た真実の言葉、「南無阿弥陀仏」だけなのです。「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀如来の名のりであり、また、喚び声です。「私は、お前を決して虚しく終わらせない命の親だぞ。お前の生も死も私の言葉にまかせ、浄土に向かって生き抜いてこい。何があっても大丈夫だぞ。」
この阿弥陀如来の喚び声を心に響かせながら、阿弥陀如来と共に人生を生き抜き、人生を死んでいく者にとっては、その身に起こる様々な出来事が、浄土へ向かってのありがたいご縁として味わえてくるのです。それは、病や死という私の生にとって絶望と言える出来事も例外ではありません。病や死も、如来様の心に包まれれば、安心できるありがたい事実です。
「ぼくはもういきます」、これは死んでいく者の言葉ではありません。阿弥陀如来の喚び声である念仏を心に響かせながら、仏陀へと命が転じられていく者のみが言うことのできる清らかな言葉です。煩悩に振舞わされて生きてきた、ただの凡夫が言える言葉ではありません。
本当の幸せは、満足するところにあるのではなく、安心できるところにあるのでしょう。いつ、どのような出来事が起ころうとも、安心して生き抜き、安心して死んでいける世界をいただいてゆきたいものです。