先日、ある御門徒の方の臨終勤行にお参りさせていただいた時のことです。生前の故人が、大変お念仏を慶ばれた有り難い方だということは、様々な方からよくお聞かせ頂いておりましたが、その時、ご家族の方が、次のようなお話をしてくださいました。
「故人は、生前、本当にお寺様にお参りするのが大好きでした。体が不自由になってからも、なんとかお寺にお参りしようと努めておりました。亡くなる少し前にも、私が、(おじいちゃん、最後にどこか行きたいところがある?)と尋ねると、少し考えて、(お寺・・・)と答えてくれました」
命のある限り、お寺を慕ってくださった故人のお姿に、深い感動を覚えたことでした。
浄土真宗のお寺というところは、時には、葬儀や法事を勤める場所になったりもしますが、本来は、生きている者が、仏法を聞かせていただくために存在しています。もし、一人も仏法を聞く者がいなくなれば、いくら、葬儀の場所として機能しようとも、お寺の存在価値はなくなると考えてよいでしょう。
先日、ある全国版のテレビ番組に、真言宗の僧侶の方が、コメンテーターとして出演されておられました。現代、特に都心部における葬儀の現状を特集した内容でしたが、その中で、その僧侶の方が、「現代の葬儀は、お寺を維持するためにあると考えてよいでしょう。」とコメントされていました。確かに、現代において、葬儀がお寺を支える経済的基盤になっていることは否定できません。しかし、葬儀を行うことが仏教の真の目的ではありませんし、まして、経済的基盤を確保することが、お寺の目的となることは、外道を歩む姿というべきです。
そもそも、仏教というのは、正しい生き方とは何か、また、正しい死に方とは何かを教えるものです。死者儀礼や先祖供養は、仏教の本来の目的ではありません。浄土真宗の上で申せば、葬儀も法事も、故人を尊い仏縁として、残された者が、その場で、如来様のお心に遇わせて頂いてこそ、本当の仏事の意味がもたらされるのだろうと思います。
はたして、私共は、正しい生き方が出来ているでしょうか。ほとんどは、そのことを問うこと自体、出来ていないのではないでしょうか。しかし、私の上に恵まれているこの命の不思議さと尊さに思いをいたすとき、たまたま頂いたこの不思議な命に対して、責任をもって生きることが出来ているかどうかは、大きな問題です。
例えば、『仏説阿弥陀経』には、「八功徳水」や「黄金為地」という言葉が出てきます。「八功徳水」は、水に八つの功徳が具わっていることを表したものであり、「黄金為地」は、大地が黄金に輝いていることを表したものです。いずれも、阿弥陀如来の世界を説き表したものですが、はたして、私共は、コップ一杯の水に対して、その素晴らしさを八つ以上考えられるでしょうか。また、普段、何気なく踏みしめている大地に、黄金の輝きを見出せるでしょうか。とてつもなく尊いものを恵まれていながら、それを有り難いとも尊いとも感じないのが、迷っている凡夫といわれる由縁であり、正しい在り方、正しい生き方が出来ていない証拠でもあるのです。仏様というのは、コップ一杯の水に無限の徳を感じ、踏みしめている大地に黄金の輝きを見出していくような、とてつもなく豊かな感性を開いている心の持ち主のことをいうのです。仏様の生きる世界というのは、「浄土」と説かれるように、すべてが浄らかで透き通った世界です。そして、そんな世界を生きていくことが、真に正しい生き方であることを教えているのが仏教なのです。
そうしますと、私共には、正しい生き方など到底出来ないということになるかもしれません。しかし、真に正しい生き方を知り、自分が間違った生き方をしていることに気づくこと自体が、大変尊いことだと思います。なぜならば、そう気づいた人は、すでに正しい生き方、つまり、仏様の領域に向かって歩み始めている人だからです。今は、鈍感で鈍っている心でも、阿弥陀如来のお慈悲に包まれて浄土に向かって歩む人は、必ず浄土に生きる心が恵まれていくのです。
命のある限り、お寺を慕う姿というのは、命のある限り、正しく生きようとされた尊い姿です。このような方のみ跡を慕わせていただく大切さを、改めて感じさせていただいたご縁でした。