無限の心配を抱えた親心

先日、ある御門徒のご法事の折に、奥様と他愛もないお話をさせていただいておりました。

住職 今日は、たくさんのご親戚の方が、お参りになられて、にぎやかでよろしいですね。息子さんも、お忙しいのに、東京からよくお帰りになられましたね。」
奥様 「最近、息子を東京の方に就職させたことに悩んでいます。地元に就職させておけばよかったのかなと思ったりします。」
住職 「でも、立派に大学を卒業されて、立派な企業に勤めておられるのですから、悩まなくていいじゃないですか。」
奥様 「ご院家様も、これから実感されていかれるでしょうけど、子どものことは、無限に心配です。学校に入っても、就職しても、結婚しても、本当に無限に心配なのです。」

他愛もない会話でしたが、親心について、改めて深く感じさせられたことでした。「無限に心配」と言われた言葉の中に、親としての必然的な温かい姿を感じます。

阿弥陀如来のことを、別名、無量寿如来とも言います。お正信偈の一句目は、「帰命無量寿如来・・・」で始まりますが、これも、阿弥陀如来のことを、あえて無量寿如来と別名で表しているものです。「無量」というのは、量ることが出来ない、つまり、限りがない、無限と同じ意味です。「寿」というのは、「いのち」という意味です。「如来」というのは、「真如から来るもの」という意味で、悟りの境地から迷えるものを導くために娑婆まで来てくださった仏様を表しています。

なぜ、阿弥陀如来が、限りないいのちの如来であるのかを、法然聖人が、次のように説明されています。

  「そのゆへは、もし百歳・千歳、もしは一劫・二劫にてもましまさましかば、いまのときの衆生はことごとくその願にもれなまし。かの佛成就してのち、十劫をすぎたるがゆへなり。これをもてこれをおもへば、済度利生の方便は寿命の長遠なるにすぎたるはなく、大慈大悲の誓願も寿命の無量なるにあらわるるものなり。」(『西方指南抄』)

 少し難しい言葉で表現されていますが、要は、阿弥陀如来が、無量のいのちを備えているのは、大慈大悲の誓願の現われであることが述べられています。阿弥陀如来は、その誓いの中で、十方の衆生を救い取るとされていますが、「十方の衆生」というのは、過去・現在・未来に亘る、全ての空間と時間の中で迷い続ける生きとし生けるものということです。いのちが、無量であるのは、それらすべての生きとし生けるものの悲しみや苦しみが、無量にあるからに他なりません。
「無量のいのち」というと、不老不死のような単に死ぬことのない存在を想像します。不老不死というのは、人間が持つ根本的な願望ですが、阿弥陀如来の「無量のいのち」は、人間が持つような不老不死のような願いが実現したものではありません。それは、あらゆるいのちの悲しみや苦しみを無限に亘って背負っていく、そして、自分の幸せを無限に亘って他のいのちの為に投げ打っていくような願いの実現です。阿弥陀如来も、無限な心配を抱え、悟りを成就されたのです。

阿弥陀如来のことを、浄土真宗門徒の方々は、「親様」と呼んできました。それは、人間の親は、ある意味、仮の親だからです。無限に心配を抱えたとしても、人間の親は、子どもの根本的な不安や苦しみを救うことはできません。なぜなら、その親もまた、自分自身の不安や苦しみを抱え、生と死の問題に惑う存在だからです。しかし、如来様は、違います。阿弥陀如来の上では、すでに無限の心配は解決されています。私達は、これまで生まれ変わり死に変わりしながら、無限の迷いを繰り返してきました。迷い続けてきた無限の時間は、同時に、如来様という親が、私から離れず、如来様のお心を聞ける身に育ててくださった時間でもあるのです。子どもは、無限の心配を抱えた親心に、いつの間にか育てられ、救われていくのでしょう。親の恩に報いる身にさせていただきたいものです。

2010年10月1日