昨年末のことでした。夕方頃、ある御門徒の方から一本の電話がありました。
「少しお時間をいただいてご相談したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?今日、息子が家に帰ってきて、気持ちの悪いことを言うのです。昨年、亡くなった祖父が、最近よく現れて、自分のことを見つめているというのですが、今から連れて行きますから、一度、息子とお話してもらえないでしょうか?」
それは、切羽詰ったようなお声での電話でした。「いいですよ。お待ちしています。」軽く返事を返したものの、いったいどんな話をされるのか、また、それに対してどんな話をすればいいのか、お寺に到着されるまでの数十分間、不安が徐々に募っていきました。
お寺には、お婆ちゃん、お母さん、息子さんと三人で来られました。まだ、十代後半の純朴そうな息子さんは、住職と二人きりで話しをさせてほしいということでしたので、仏間で二人きりで一時間ほどお話をさせていただきました。
亡くなった人が、目の前に現れるという、いわゆる幽霊に関する相談は、これまで何度かありました。実際に幽霊という現象が、何であるのかは、私には分かりません。しかし、相談に来られる方々は、どの方も真剣な悩みをもって来られます。この度の十代の男の子も、真剣に悩んでいることが、ひしひしと伝わってきました。
詳しい話の内容は、ここでは控えますが、男の子の悩みは、単に幽霊ということに留まらず、「人が死ぬとは、いったい何であるのか?」「死ねば、人はどうなるのか?」といったような、人としての根本的な問題が、深い悩みとなって襲ってきたような形のものでした。男の子の悩みをじっと聞きながら、どのように答えようかと頭をひねりましたが、結局、「その悩みに本当に答えていけるのは、如来様しかおられない」という答えしかできませんでした。来月に勤まる御正忌報恩講の日時をメモした紙を手渡して、「如来様なら、あなたの悩みにはっきりと答えてくださるから、何十年かかっても、納得のいくまで聞き続けてください」と最後に言葉を添えました。
そして、御正忌報恩講の最終日、その男の子は、ご家族の方と一緒に参詣しお聴聞をしてくださったのです。この度の御正忌報恩講は、延べ三五〇人以上の方々がご参詣くださった、大変参詣者の多いうれしいご縁でしたが、その男の子が、お参りしてくださったことが、住職にとっては、なによりもうれしく思ったことでした。
仏教では、阿弥陀如来のお心とその働きを蓮の花によく例えます。蓮というのは、泥の中から見事にきれいな花を咲かせます。泥というのは、汚いものです。泥に触れれば、あらゆるものは汚れていきます。しかし、蓮の花は、その汚い泥がなければ、きれいな花を咲かすことができないのです。仏教では、あらゆるものを汚していくこの汚い泥を、私達の悩みや迷いに例えています。悩み苦しんでいる状況は、人間にとって好ましくない状況です。また、苦しんでいる時は、泥が、あらゆるものを汚していくように、自分の心を傷つけ、周りの人の心も傷つけていきます。しかし、この悩み苦しみが、やがて見事な悟りの花を咲かせていく、なくてはならない糧となっていくのです。
浄土真宗というみ教えは、今、ここで、阿弥陀如来に出遇っていくみ教えです。決して死んでから仏様に会うのではありません。仏教の中には、死に際に阿弥陀如来のお迎えを期待する思想もありますが、死に際に現れるものは、所詮、幻ではないでしょうか。人は、悩み苦しむ中で、本当の阿弥陀如来に出遇っていくのです。阿弥陀如来は、お寺の鐘のようなものです。力いっぱい打つと、鐘は、それに応じて大きく響きます。それと同じように、大きな悩み苦しみをもって、真剣に聞き続ける人には、必ず阿弥陀如来のお慈悲が、大きく響いてくるのです。
念仏者にとって、人生に無駄なものは一つとしてありません。自分にとっては、思い出したくない経験も、その人の徳に転じていくのが、阿弥陀如来の救いの働きなのでしょう。死ぬまで、聞き続ける人生でありたいものです。