苦しみが深ければ深いほど、如来様のお慈悲の心は、大きく響いてくださる

人の死というのは、有縁の方々に、何かしらの大きなものを遺していくものです。以前、ある先生から「人類の精神文化は、偉大な死によって創られてきた」という言葉を聞かせていただいたことがあります。例えば、ソクラテスの死は、弟子のプラトンに大きな影響を与え、その後のギリシャ哲学の発展をもたらします。また、キリスト教でも、十字架に磔にされたイエスの死が、キリスト教の真髄を多くの人々に伝える根本的な出来事になっていきます。そして、仏教においても、お釈迦様の死は、涅槃(ねはん)という、仏教における本当の安らぎの境地を人々に伝える出来事でもあります。浄土教というのは、遡れば、お釈迦様の死から始まったといっても過言ではないでしょう。このように、人類は、人の死から多くのことを学び、多くの大切な事柄に気づかされてきました。そんなことを思う時、現代においても、葬儀のご縁というのは、本当に大切にしなければならないものだと思うのです。

先日も、ある御門徒の葬儀のご縁をいただきました。三十代前半の息子さんの葬儀でした。老少不定という言葉が仏教にはありますが、若くしてお子様を亡くされることの悲しみは、親御さんにとって本当に深いものがあります。それに加えて、この度は、自ら命を絶たれたことが、直接の死因になったとのことでした。毎年、一度か二度は、必ず、この度と同じご縁をいただきます。日本の自殺者の数は、年間三千万人を超え、一日六十人、約十六分に一人の方が自ら命を絶たれています。

苦しみという言葉で片付けてしまえば簡単なことですが、自ら命を絶たれる人にとっては、言葉では言い表すことができないような深く重い闇が、その心を占領していくのでしょう。

この度、故人のお母様から次のようなお尋ねを受けました。

  「このような亡くなり方をした息子は、地獄に堕ちているのでしょうか?」

悲痛な表情から吐き出された言葉に、一瞬胸が詰まりそうになりましたが、一言、「大丈夫ですよ」と返しました。

仏教では、自殺というのは、確かに罪を作ることであり戒められています。それは、殺生をすることだからです。本来、仏法では、命というのは、自分のもの、他人のものと分けて捉えることはしません。自分の命も、自分で創り出せるものではないからです。数限りない無数のご縁によって、私は、ここに掛け替えのない命をいただいているのです。他殺も自殺も、命そのものを粗末にし、縁起の道理に背くものとして、仏法では戒められているのです。

それでは、苦しみ悩んだ末に、自ら命を絶つしかなかった人々は、地獄に堕ちるしかないのでしょうか。地獄というのは、仏法では、苦しみが極まった世界をいいます。正しく自殺という在り方は、地獄の真っ只中にあるといっていいでしょう。親鸞聖人の有名なお言葉に「いづれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし」というものがあります。私は地獄を住処とするしかないという意味の言葉ですが、これは大変な言葉です。「自分は地獄の真っ只中にいる」と告白しているのです。詳しくここで述べることはできませんが、親鸞聖人の人生というのは、絶望の連続でした。この言葉は、親鸞聖人が、現代において自ら命を絶つしかなかった人々と、同じ深く重い闇を背負った方だったことを表しています。

しかし、親鸞聖人は、その深く重い闇の中で、阿弥陀如来に出遇っていかれたのでした。悪人正機という専門用語で表されたりもしますが、阿弥陀如来のお慈悲の働きというのは、より苦しみが深い者の上に働いていきます。三人の子どもを持つ母親がいたとします。母親は、三人ともに愛情をかけるに違いありませんが、その中で、一人の子が病にかかり苦しむようになれば、他の二人をさしおいて、まずその苦しむ一人の子どもに寄り添おうとするはずです。人生において、様々な縁に翻弄され、苦しみぬいて、自分ではどうしようもなく命を絶つしかなかった人を、如来様が放っておくはずがありません。苦しみが深ければ深いほど、如来様のお慈悲の心は、大きく響いてくださるのです。どれほど膨大な時間がかかろうとも、如来様は、地獄の真っ只中で、一緒にその深い苦しみを背負われながら、本当の安らかなる境地へと、その者を育ててくださるはずです。お経の中には、それが誓われてあるのです。

しかし、それを本当に実感していくには、私自身が、如来様に出遇わせていただかなければなりません。私自身が、如来様の働きに遇わせていただいてこそ、亡くなった方に寄り添う如来様がましますことを、本当に味わえることができるのです。どのような方の死も決して無駄にしてはなりません。葬儀は、人の死から、命の一大事を聞かせていただく、そのような尊いご縁にさせていただきましょう。

2010年4月1日