先日、ある御門徒のご法事の折に、故人の娘さんから、次のようなお話を聞かせていただきました。
「私が、お嫁に行くとき、父には、《つらいことがあっても、辛抱しなさい。絶対に戻ってきちゃいけんぞ》と厳しく諭されましたが、母は、逆に《つらくなったら、いつでも戻っておいで》という言葉をかけてくれました。当時は、父のように、嫁に出す娘に対して《辛抱しなさい》と諭すのが普通でした。でも、《戻っておいで》といわれて、本当に戻る人はいません。今では、あの母の言葉が、私を支えてくれたように思います。」
何気ない故人の思い出話として、お話してくださいましたが、ご法義と重ね合わせて、大変ありがたく聞かせていただいたことでした。
親鸞聖人のお言葉の中に、「釈迦弥陀は、慈悲の父母」というものがあります。お釈迦様も阿弥陀様も同じお悟りを開かれた仏様であり、お慈悲のお心を備えておられます。しかし、そこをあえて、父と母とに当てはめて違いを出されているところに、深い思し召しがあるように思います。
「慈悲」という言葉は、「慈しむ」と「悲しむ」という言葉から成っています。「慈しむ」というのは、純粋にその人の幸せを願っていく心をいいます。それは、その人の幸せのためであるなら、自分自身の身を投げ打っていくような純粋なものです。しかし、その人の幸せを純粋に願っていくとき、必ずしも、その人に対して優しいばかりでは通らないことがあるのではないでしょうか。なんでもかんでも、その人に手を差し伸べることは、その人自身を破壊してしまうことにつながります。子どもにとっては、厳しくつらいことであっても、それに耐えていくことが、本当の幸せにつながっていくことであるなら、毅然としてその道を勧めていくのが、父親の優しさなのでしょう。それは、まるで、厳しい成仏道をお勧めくださっているお釈迦様のお心のようです。
一方、「悲しむ」という心は、自分のために涙を流すのではなく、人のために涙を流していく、悲しみを共感する心を表しています。それは、厳しい道を歩み、それに耐えていくことが、幸せにつながっていくことを知りつつも、それに伴う悲しみや苦しみを、どうしても放っておけないような心です。これから、厳しい道に入って行こうとする子どもに向かって、その悲しみや苦しみを共に感じながら、「いつでも戻っておいで」とやさしく語りかけていくのが、母親の優しさでしょう。まるで、私の悲しみや苦しみを、そのまま受け止めてくださる阿弥陀様のお心のようです。
しかし、慈の心も悲の心も別々のものではありません。慈しむ心は悲しむ心であり、悲しむ心は、慈しむ心でもあります。浄土真宗という仏道は、まさしく、この厳しさと優しさの中で、仏に導かれながら歩ませていただく道といえるでしょう。浄土真宗というと、在家のままで戒律もなく、ただお念仏さえ称えればよい仏道だということで、厳しさは、あまり感じられないかもしれません。しかし、真剣に仏様の教えどおりに生きようとすれば、そこには、必然的に厳しさが伴います。親鸞聖人の九十年の生涯を窺わせていただくと、まさしく、その人生に厳しさが滲み出ています。しかし、その厳しさの中には、必ず温かみがあるのです。それは、厳しい私の人生そのものを一緒に背負ってくださる阿弥陀如来様の働きです。
そして、その働きは、この私に、お浄土という本当に安心のできる落ち着き場所があることを教えてくださるのです。人は、普段、威張ったり強気でいても、つまるところ、誰もが弱く小さな存在です。そのままの私を受け入れてくれる大きな心と、帰るべき落ち着き場所があることが、人生における何よりもの大きな支えとなっていくのでしょう。
この道を行きなさいとお勧めくださるお釈迦様、そして、その道を一緒に歩みお浄土まで導いてくださる阿弥陀様、まさしく、父と母の心のようです。父と母の心を知らずに育ち、死んでいくことほど不幸なことはありません。いのちあるうちに、必ず仏法に遇わせていただきましょう。