死んだ方は、本当はどこにいるのでしょうか?

今年も早いもので、お盆が過ぎました。毎年、お盆勤めでお参りさせていただく中で、感じることがあります。それは、お盆を迎えるに当たり、誰もが、少なからず、心に先祖供養の思いを抱いておられるということです。そんな中、今年は、お一人の御門徒の方から、次のようなお尋ねがありました。

  「昔、お盆になると、おばあちゃんから、《お盆には、ご先祖がお墓からお帰りになるから、窓を開けておきなさい》と言われていました。それ以来、毎年、お盆には、窓を開けてご先祖をお迎えするようにしているのですが、実際のところ、浄土真宗では、このようなお盆のお迎えの仕方でよろしいのでしょうか?死んだ方は、本当はどこにいるのでしょうか?帰省してくる娘に本当のことを教えておきたいので・・・」

 日本では、お盆の迎え方として、故人が自宅に戻ると考えるのは、特別なことではありません。一般化しているというべきでしょう。しかし、これは、本来、仏教が教えたものではありません。亡くなった方を強く思う人々の中から、自然に出てきたものだと考えられます。

私達の人生における経験の中で、最も辛く悲しい経験は、親しい方との死別でしょう。死は、永遠に、その人との関係を断ち切ってしまいます。どれほどその人を想い続けても、死の壁は、その想いを虚しくさせます。生前にああもしてやりたかった、こうもしてやりたかったと、自分の行き届かなかったことを悔やむ思いが、心をしめつけます。このような、どうしようもない悲嘆と後悔を癒すものとして、先祖供養の儀式は、仏教の中で定着していったのです。

供養という言葉は、本来、サンスクリット語で「プージャナ」といい、「尊敬すること」「礼拝すること」というような意味をもっていました。ところが、仏教が民衆の信仰として定着していくにつれ、こうした供養の本来の意味が変化し、いつしか死者儀礼として一般に定着していったのです。親鸞聖人の時代においても、仏教といえば、先祖供養の儀礼を教えるものだとみなされていました。現代においても、仏教を見る目は、あまり変わらないかもしれません。

そんな中、親鸞聖人は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。」といわれています。孝養というのは、供養のことです。両親の供養のために、念仏したことは一度もないと言われるのです。長い仏教の常識に浸かってきた人々にとっては、衝撃的な言葉ではないでしょうか。人々が仏教に求めてきた先祖供養という癒しを、きっぱりと拒絶されたということは、それ以上の確実な救いに出遇っていかれたからでした。

それが、十方衆生を包み込む阿弥陀如来の大きな願いなのです。十方衆生というのは、命あるものは、すべて、そこから漏れるものはないということです。今生において、阿弥陀如来の願いに出遇えなかった者も、阿弥陀如来は、決して漏らしはしません。どれほど阿弥陀如来に背中を向け、どれほど永い時間がかかろうが、阿弥陀如来は、地獄の底まで、その命に寄り添い、喚び覚まし続け、必ず、仏にさせていくのです。

亡くなった命が、どこへ行ったのか、凡夫である私共には、どこまでも知る術はありません。お墓にいるのか、自宅に戻っているのか、それらは、不安定な凡夫が勝手に描いている妄想に過ぎません。決して命の実相ではないのです。その中、ただ一つ確実なのは、如来様の喚び声です。それは、「必ずお前を仏にするぞ」の一言です。他人のことは分かりませんが、私のことは分かります。如来様が、念仏となって私の中で響いているのですから。その響きだけが、真実なのです。今生が終わり、仏の命を賜れば、立ちはだかる死の壁は、もう壁ではありません。私もまた、生と死を超え、十方衆生に働きかける身とさせていただけるのです。その時、親しい方々が、もし迷いの命であり続けていたならば、真っ先に私自身が、その命を導くことをさせてもらえるのです。

一時的な供養に癒しを求めることよりも、深く慈しみ悲しんでくださる阿弥陀如来に出遇っていくことが、何よりも大切なことなのです。

2010年9月1日