小さな子どもと一緒に過ごしていると、大人では感じることの出来ない、不思議な驚きを共有することがあります。先日も、間もなく三歳になる娘が、次のようなことを尋ねてきたことがありました。
「ユキちゃんは(娘は、自分のことをユキちゃんと呼びます)、兄ちゃんが、タンポポさんのとき(保育園のタンポポ組のことです。二歳の時という意味です)は、お母さんのお腹の中におったんよね。でも、お母さんのお腹の中におる前は、ユキちゃんは、どこにおったん?」
どのような答えが、正しいのでしょうか?とりあえず、常識的な答えを返すしかありませんでした。
「お母さんのお腹の中におる前は、どこにもおらんかったんやろ。」
このような父の返答を聞いて、娘は、納得の出来ない不思議そうな顔をしていました。娘を襲ったこの不思議な問いは、非常に宗教的な問いです。大人になってしまってからは、このような問いは、なかなか持つことはありません。なぜなら、大人は、住職が答えたように、「母親のお腹の中に宿る前の自分は、存在しない」という常識の中で、片付けてしまっているからです。しかし、大人が考えるこの常識が、真理に叶っているかどうかは、よく考えなければなりません。確固たる自我を持った大人よりも、自我をもたないより小さな子どもの方が、自分を超えた大きな働きの中に抱かれている感覚は、鋭いといえるのではないでしょうか。
先日の報恩講にお越しくださった御講師が、東京大学の遺伝子工学の教授の講演の中で、「遺伝子や細胞がどのように変化し生成されていくかは、我々によって明らかに出来るが、私そのものの問題は、科学ではどうしようもなく、それを明らかにしていくのは、宗教の仕事でしょう」と言われたお話を紹介してくださいました。仏教というのも、人間の分析力では明らかに出来ない、この私そのものを問題にしたものなのです。科学では、今の私は、母親のお腹の中に宿った時に誕生し、死と共に消えていくと説明されます。しかし、それは、私そのものの問題を明らかにしたことにはなりません。なぜなら、その答えでは、私そのものが、落ち着かないからです。不安な状態のままです。真理ならば、必ず安心をもたらすはずです。絶対的な安定こそ、あるべき健全な姿だからです。
中国の唐の時代に活躍された浄土真宗の七高僧の一人に数えられる善導大師が残された言葉の中に、次のものがあります。
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。」
私そのものの正体を、仏教の立場から、ズバリ説明されたものです。善導大師によれば、この私そのものの問題は、「曠劫よりこのかた」から続いているものだというのです。「曠劫よりこのかた」というのは、初めも分からない程のはるか昔という意味です。数十年前、母親のお腹に宿ったその時から、私そのものの問題が始まったわけではなく、その前から、この問題は続いてきたんだというのです。そして、その問題は、「つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」というところにあるというのです。生まれ変わり、死に変わりを永遠に亘って続けてきた、それは、言い換えれば、罪を作り続けながら、苦しみの中に沈み、出口の見えない迷いの中をただ流れ転がってきたということだというのです。
これが真理ならば、今の世において、私の身の上にどんなことが襲い掛かってきても、少しも不思議でないということでしょう。どんな報いを受けてもおかしくない深い罪を、私達は、背負っているのではないでしょうか。「なぜ私だけがこんな目に?」と思ってしまうことも、私の上に起こるべくして起こっているというべきなのでしょう。しかし、このどうしようもない苦しみの悪循環から、この私を救い出そうとする一筋の光が、すでに届いているというのです。その光こそが、お念仏だというのが、善導大師の明らかにしようとされたことです。
どんなに時代が変わろうとも、人が抱える問題は、人である限り変わることはありません。社会の常識にとらわれず、子どものような柔らかい心で、仏法を聞かせていただける身でありたいものです。