先日、仏教婦人会の大会の折、『アソカの園』という歌を聞いた会員さんの中で、「胸が熱くなりました」と言われた方がいらっしゃいました。また、コーラスの芬陀利華のメンバーの方々も、この歌の歌詞について、興味を持たれた方が、たくさんいらっしゃいました。そこで、今月は、この
『アソカの園』という仏教讃歌について、少し味わってみたいと思います。
「アソカ」という言葉は、仏教全般でよく使われる言葉ですが、これは、「無憂華」という花をインドのサンスクリット語で表現したものです。お釈迦様は、この「無憂華」という花を咲かせる樹の下でお生まれになられたのです。お釈迦様の御母様であるマヤ夫人は、お釈迦様をお生みになられた時、大変、安産だったことから、その花を「憂いの無い華」と名づけられたとも言われますが、「憂いの無い」という世界は、お釈迦様が説かれた仏教の世界観も同時に表しています。その一番目の歌詞は、次のものです。
「暁のひかりとあおぐ
み教えのふかきみちびき
母なれば妻なればこそ
ささげましこの手この業
とうときは法のみひかり」
「暁のひかり」というのは、普通の光とは違います。暁の太陽の光は、真っ暗な夜の闇を破る光です。真っ暗だった夜の闇は、暁のひかりによって破られていきます。それと同じように、如来様のみ教えは、真っ暗な私の心の闇を破ってくださるのです。一度、差し込んだ光は、少しずつ、それまで闇に覆われて見えなかったものを見せてくださいます。
生きていれば、思い出したくもない苦しい出来事や悲しい出来事が、誰にでもあるはずです。それらの出来事に遭遇したとき、ただ愚痴や涙しか出ないのが、私達の姿です。しかし、悲しみや苦しみの中にも、隠された真実というものがあるのです。悲しい中にも合掌ができる世界があります。教えを聞き続けるということは、少しずつ、その真実に目が慣れていくということでもあるのです。それが、「ふかきみちびき」ということです。教えられ、気づかされ、導かれていくのが、み教えを聞く者の本当の姿なのです。教えを聞いても何も変わらないというのは、聞いていないということでしょう。しかし、自分では、その変化になかなか気づけないものです。渋柿が、太陽の光によって、いつのまにか甘い柿に熟していくように、み教えを聞かせていただくならば、少しずつ、いつのまにか育てられていくものなのでしょう。
「母なれば妻なればこそ ささげましこの手この業」というのは、み教えに導かれた姿を表現したものです。女性として、母の役割や妻の役割を果たしていくことは、大変なことです。決して、一筋縄にいくものではありません。「なぜ自分だけが・・・」「なぜこんなことを・・・」など、愚痴をこぼすことも日常茶飯事のことでしょう。しかし、み教えの光に照らされるとき、私の幸せのみを追求し、他の周りの安らぎを願っていない浅ましい姿が、浮かび上がってきます。私の幸せを追い求めることしか見えていない時は、現状の在り方に感謝することは決してありません。親鸞聖人は、「この如来、微塵世界にみちみちてまします」とお示しくださっていますが、如来様は、既に様々に姿を変えて、私の人生に満ち満ちてくださっていると聞かせていただく時、周りに満ち満ちる私を支える温かい働きに気づかせていただくはずです。ならば、私もまた、周りの為に一生懸命させていただかなければなりません。そのことを表現しているのが「ささげましこの手この業」という歌詞でしょう。「してあげている」という世界が、「させていただく」という世界に転ぜられていくのです。
二番の歌詞に「ほほえみは 泉とわきて み名よばん」ともあります。これは、愚痴が喜びに変わっていく様を表現しています。「み名よばん」とは、「南無阿弥陀仏」とお念仏させていただくことです。お念仏を申すことは、如来様に呼び覚まされているのと同時に、如来様の御名を讃え、如来様に感謝する想いが溢れている姿でもあります。お念仏は、本当のほほえみを私の上に開いてくださるのです。
日常生活の中でこそ、浄土真宗のお法は、本当に味わうことができるのです。日々、気づかされる毎日を大切に送らせていただきましょう。