先日、ある御門徒の50回忌のご法事でのことでした。お斎の席で、御親戚の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。
「ご院家さん、私の家には、九十八になる婆ちゃんがいます。この婆ちゃんが、本当に仏様を大事にするんです。この婆ちゃんは、六歳の時に病気で目が見えなくなったんです。九十二年間、真っ暗な世界で生きてきました。でも、私ら家族、一度も婆ちゃんが愚痴をこぼしているのを聞いたことがないんです。ある時、婆ちゃんに『婆ちゃん、愚痴こぼしたくなる時はないの?』って聞いてみたんです。そしたら、婆ちゃんが、『わしが愚痴こぼしたら、阿弥陀さんが難儀がるけぇの』って言うんです。私ら、家族、本当にこの婆ちゃんに教えられることが多いんです。」
最近、書店に立ち寄ると、宗教を扱った本が、いたるところに平積みにしてあるのを、よく見かけるようになりました。その中には、仏教系のもの、キリスト教系のもの、新興宗教系のものと様々ですが、住職が学生だった十数年前は、宗教系の本は、『宗教』という一つの狭いコーナーに一色単に押しやられていたものです。それだけ、宗教に対する興味関心が強まってきたということでしょうか。しかし、それは、身近なところに宗教的なものを感じなくなり、宗教が珍しい対象になってきたということかも知れません。
それら書店に平積みにされている本を購入し、読ませていただきますと、どの本にも共通していることですが、宗教的情操感が抜け落ちているような感じがするのです。説明としては、とても分かりやすく書かれていても、どこか焦点がずれているような感じを拭えません。おそらく、本の著者自身が、その宗教によって、本当には生かされていないからなのでしょう。
宗教的なものに出遇っていくというのは、人に出遇っていくことに他なりません。如来の働きによって育てられ、浄土へ生まれていくような人を通して、人は、初めて、如来の働きに出遇うことができるのだと思います。如来の働きに出遇い、それに育てられている人は、言葉では言い尽くせないような如来様の薫りをまとっておられます。
愚痴というのは、「こぼす」と表現するように、それは、人なら誰しもが、思わず口にしてしまうものではないでしょうか。愚痴をこぼさないのは、生まれたばかりの赤ちゃんぐらいのものでしょう。保育園児でも、かわいい愚痴をこぼしています。それ故に、多くの人は、愚痴をこぼしている自分の状態を、人としての当然の姿のように思っているのではないでしょうか。しかし、お経には、「愚痴」というのは、「物事を正しく見ることが出来ない状態」として示されています。私の濁った眼でみれば、人生は、愚痴で溢れていくのかもしれません。しかし、如来の眼からみれば、私の人生は、苦労が多くても、それは、温かい働きに満ち溢れているのでしょう。私達は、多くの有難い働きに恵まれていながら、それら影となって私を支え続けるものに目が向かず、不幸せな状態を自らが作り出しているのです。
「阿弥陀さんが難儀がるけぇの」という一言は、なんとも温かいものを感じます。目が見えない真っ暗な世界でありながら、ひとつも暗くなく、むしろ温かい光に命そのものが包まれているような響きがあります。
親鸞聖人のお書物の中に次のような言葉があります。
「「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、・・・・無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、・・・」
私達の心は、死の瞬間まで、醜い姿を描いていきます。しかし、その醜い姿を醜いものとして私に知らせながら、その醜いどうしようもない私を、しっかりと抱き育て続けてくださるのが、如来の働きです。如来様と共に過ごす人にとっては、一瞬一瞬が、教えられる日々です。如来様の眼をいただく時、真っ暗な中でも、正しく生きる道が、はっきりと目の前に開かれていくのでしょう。