「おめでとう、仏縁に遇えたね」

先日、大学院時代の同級生や先輩方とで一冊の論文集が出版されたことを機に、執筆者が京都に集まり、恩師の浅井成海先生を偲ぶ会が開かれました。それぞれに恩師への感謝の想いが溢れる、とても心温まる会でした。その中で、浅井先生の御自坊を継がれたお嬢様が、次のようなお話をしてくださいました。

 「父に私がお寺を継ぎますと伝えた時、父は、『〇〇子おめでとう、仏縁に遇えたね』って言葉をかけてくれました。」

浅井先生の仏法を深く味わっていらっしゃったお人柄が偲ばれる、とても心温まるお話でした。

浄土真宗寺院にとって後継者の問題は、大変重要なものです。なぜなら、浄土真宗のお寺は、親鸞聖人以来、世襲制を採用しているからです。他宗派のお寺も、現在は、ほとんど世襲制を基本としているようですが、他宗派のお寺が、世襲制を採用したのは、明治時代以降の話です。本来、他宗派は、住職が家族を持たないことが、教義上の建て前であるため、世襲制ではありません。よって、住職や檀家が、それほど後継者のことを心配する必要がないのです。現在でも、後継者が不在であれば、次の住職は、ご本山が決めてくださり、適任者が、ご本山より住持職として派遣されてきます。しかし、浄土真宗は、本来世襲制であるため、ご本山が、一般寺院の後継者に関わることはありません。それぞれのお寺の住職と御門徒方が、次の住職を育て守っていかなければならないです。浄土真宗の御門徒方が、寺族の長男を新発意と呼び、大切にしていくのは、浄土真宗寺院が世襲制だからです。全国のお寺では、住職が決まらず廃寺に追い込まれたり、隣寺の住職が代務をして葬儀だけを勤めるという状況も出てきています。それだけに、現役の住職にとって、後継者が決まらないというのは、本当に頭の痛い問題なのです。

そんな中、三人いる娘さんのお一人が、お寺を継ぐことを申し出てくれたのです。私達の常識的な発想では、「ありがとう」と言葉が出るのが普通ではないでしょうか。しかし、先生が、娘さんにかけられた言葉は、「ありがとう」ではなく「おめでとう」だったのです。親鸞聖人の主著である『教行信証』の序文に、次のようにあります。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」

 難しい表現ですが、親鸞聖人のお味わいが、そのまま端的に記されています。阿弥陀如来のお慈悲に出遇い、喜ばせていただく身になることは、「億劫にも獲がたし」とあるように、果てしない時間がかかっても、本当に難しいことなのです。しかし、その中で、不思議にもたまたま阿弥陀如来のお慈悲に遇わせていただけたなら、遠い宿縁を慶びなさいと言われるのです。「遠く宿縁を慶べ」というのは、果てしない昔から諦めずに、私を護り育て続けてくださった阿弥陀如来の深い働きを慶んでいきなさいということです。

世界に七十億人という人がいる中で、阿弥陀如来のお慈悲に出遇っていく方は、ほんの一握りです。それが、過去、未来へと目を向けると、その確率は、本当に小さなものになります。しかも、たまたま人として生まれたことを考えると、果てしない無数の命がある中で、仏法に出遇い、真実に目が覚めていくということは、本当に驚くべきことと言わねばならないでしょう。

人生において、本物の宝となっていくのは仏法だと思います。私が努力をして作り上げた財産や地位や名誉は、決してつまらないものではありませんが、人生における本物の宝とは成りえません。なぜなら、私の命に本物の実りをもたらすことはないからです。それらは、時と場合によっては、私を虚しくさせていきます。しかし、如来様の御慈悲という宝は、どんな時もどんな場合も、決して私を虚しくはさせません。たとえ、死を前に臨んでも、決して命を虚しくさせない宝が、仏法なのです。その宝物に、たまたま恵まれたのです。「おめでとう」と共に喜んでくださるようなものに出遇わせていただきながら、それを、私たちは、案外、当たり前のように過ごしてしまっているのではないでしょうか。仏法を、たまたま恵まれた大切な宝物として、喜んでいける日々を共に歩ませていただきたいものです。

2012年5月1日