先日、あるご法事の折、当家の奥様より次のようなお話をいただきました。
「私は、毎朝、お仏壇の前に座って、お正信偈をお勤めして、その後、礼讃文を拝読しています。時間のない朝は、お正信偈が、讃仏偈に代わったりもしますが、礼讃文は、毎朝、拝読しております。でも、長年、拝読してきましたが、この礼讃文の意味がよく分かりません。御院家さんが、来られた時に聞こうと思っていたんです。」
朝、一日の始まりと、夜、一日の終わりにお仏壇の前に座らせていただくことは、とても大切なことです。浄土真宗のお仏壇は、家庭生活の中心でなければなりません。色んな思いを持った家族が、同じ阿弥陀如来のお慈悲の中で一つになって、同じ方向を向いて生き抜いていける場が、お仏壇なのです。日ごろ、如来様のことなど、どこかに忘れて、浅ましい姿を垂れ流しにしている私達です。朝晩、お仏壇の前に家族で座り、如来様のお心を味わい、一日を大切に過ごしてみたいものです。
さて、礼讃文ですが、これは、三帰依文ともいい、御門徒の方々が拝読する聖典の初めの方に掲載されています。全文は、次のものです。
人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの 身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依したてまつるぺし。
自ら仏に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、 大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、 深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、 大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深徴妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。
我いま見聞し 受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
このように、言葉が非常に難しいので、意味がよく分からなくても無理はありません。しかし、ここには、浄土真宗のみならず、仏教徒としての基本的な味わいが語られています。生まれがたい人としての命を賜ったこと、聞きがたく遇いがたい仏法に遇い得たことを喜び、その上で、仏・法・僧の三つの宝に帰依していくことが、ここには語られています。
宝物に関して、お釈迦様と実子ラーフラとの有名なエピソードがあります。お釈迦様には、出家前に授かった長男がいらっしゃいました。愛する我が子は、出家の決意を揺るがします。それで、お釈迦様は、その子にラーフラ(障害をなすもの)と名づけたのです。お悟りを開かれ仏と成った後、お釈迦様は、カピラ城で実子ラーフラと対面します。その時、ラーフラは、お釈迦様に「私に宝物をください」といいます。これは、釈迦族の王位継承権を保証してほしいという意味だったのですが、お釈迦様は、ラーフラに「壊れる宝がよいか、壊れない宝がよいか」と聞きます。子どものラーフラは、当然、「壊れない宝がいい」と答えます。お釈迦様は、「それなら、み教えを聞く身になりなさい」といって、ラーフラをそのまま出家させたと言われています。
私達が、普段、宝物にしている財産や地位や名誉や健康、家族でさえも壊れるものです。無常の風にすべて吹き飛ばされていきます。壊れていくものは、私自身の人生を命を、本当の意味で支えることはできないのです。真実に目覚め、私どもを目覚めさせてくださる仏と、そのみ教え(法)と、その教えに従って生きる人々の和やかな集い(僧)こそ、生きとし生けるすべてのものにとって、何よりも尊い、かけがえのない宝物と成り得るのです。
仏教徒とは、この三種の宝物を賜り、そして、その宝物に守られ、導かれる者のことをいうのです。大切にすべき宝物は、私の欲望を満たすものではありません。私を惑わし、迷わすものを宝物だと錯覚して過ごす私達です。日々の日暮しの中で、仏教徒として、この礼讃文を大切に拝読させていただき、大切にすべきものを見失わないようにしたいものです。