先日、近隣の浄土真宗の寺院十四ヶ寺から組織されている山口南組の総代研修会が、陶の西円寺様において開かれました。この研修会では、御法話をお聴聞した後、四グループに分かれて、意見交換をする場が設けられています。様々なお寺の総代の方々が集まって、お寺の取り組みや悩み等について、様々な意見が交換されました。後継者不在や本堂の修復、過疎化の問題など、様々な意見が交換されましたが、どこのお寺にも共通していたのが、法座にお参りする方々の減少と高齢化の悩みでした。浄土真宗の寺院において、その中心となるのは、法座活動です。浄土真宗のお寺の本堂は、御本尊を御安置するお堂というだけでなく、御門徒が、阿弥陀如来のお心をお聴聞するための道場でもあるのです。ここが、他の宗派のお寺とは、大きく異なるところです。総代さん方が、法座にお参りする方々の減少について悩まれるというのも、浄土真宗門徒の特徴といえましょう。お寺に多くの方々にお参りしていただくために取り組んでいる様々な事例についても、意見交換がありました。それぞれのお寺で、御住職と総代の方々が、工夫され、み教えを伝えようとされているお姿には、本当に頭が下がる思いがします。
さて、昨年、正法寺の公開講演会に東京大学名誉教授の養老孟司先生がお越しくださいました。多方面でご活躍の有名な先生ということもあって、お迎えする住職も大変緊張したことを覚えています。しかし、住職の緊張をほぐしてくださるかのように、控室では、大変気さくに様々なお話をしてくださいました。その養老先生が、帰り際、次のようなお話をしてくださったのです。
「お寺は、人々に求められる時代が、まもなくやってくると思います。明治時代に面白いデータがあって、二十代の若者にお寺に関する調査をすると、ほとんどの若者が、お寺には興味がないと答えているんです。その明治時代の若者が、昭和の初め、歳を重ねると、みんな仏様のお話を聞きに、お寺にお参りしたのです。今も昔も、若者が、お寺に興味がないのは変わっていません。でも、これから、たくさんの人が、お寺にお参りする時代が、またやってくると思いますよ。みんな仏教を求めるようになると思います。がんばってください。」
タクシーに乗り込まれる間際、急いで、こんなお話をしてくださいました。若い住職に対する温かいエールを送るおつもりでお話しくださったように思いますが、講演の中で、養老先生は、人の理屈の世界が、どれほどあてにならない不確かなものであるのかをお話しくださいました。それは、人の理屈の最前線で仕事をしてきた自分自身の実感だとも申されました。再び、多くの人々が、仏教を求めるようになるというのは、養老先生の実体験を通した上での実感でもあるように思います。
なぜ、お寺にお参りしなければならないのか、それは、人の理屈の世界では、どこまでいっても決して解決できない問題が、厳然としてあるからではないでしょうか。そして、その解決できない問題は、人である限り、誰もが抱えなければならないのです。お釈迦様が悟られた真理は、その問題を乗り越えていく道でもあったのです。その問題とは、一言でいえば、思い通りにならない苦しみということでしょう。人は、誰もが、自分の思い通りになることを求めます。歴史を形作ってきた権力争いも、それが原因となって起こります。科学技術も、より思い通りに便利になることを目指して発達してきたといってもよいでしょう。そして、それによって、人は必ず傷つくのです。損か得か、勝つか負けるかに振り回される世界に、それとはまったく異なる価値観でもって、人々に深い安らぎの道を教えてくださるのが、仏様のみ教えです。お寺というのは、人の理屈とは異なる仏様のお心を聞かせていただくところなのです。
お釈迦様は、人々が、本当に求めるべき世界を教えてくださっています。それは、2500年以上もの間、大切にされ、多くの人々を救ってきた真理です。今一度、お寺にお参りし、仏様のお心を聞かせていただくことの大切さを考えさせていただきましょう。