先日、あるご法事の席で、次のようなお尋ねがありました。
「最近、私も、お寺でお話を聞かせていただくようになったんですが、浄土真宗では、死んでいくということを悪いことじゃなくて、良いこととしてお話をされますよね。死んでいくことを良いこととして受け止めないといけないんですよね。難しいことですけど。」
生と死をどのように受け止め味わっていくかは、どの宗教にとっても大きな問題です。親鸞聖人のひ孫に当たる本願寺第三代目の覚如上人という方が、生前中の親鸞聖人について、次のようなエピソードがあったことを紹介されています。
「人間の八苦のなかに、さきにいふところの愛別離苦、これもつとも切なり。・・・・・つぎにかかるやからには、かなしみにかなしみを添ふるやうには、ゆめゆめとぶらふべからず。もししからば、とぶらひたるにはあらで、いよいよわびしめたるにてあるべし。「酒はこれ忘憂の名あり、これをすすめて笑ふほどになぐさめて去るべし。さてこそとぶらひたるにてあれ」と仰せありき。しるべし。」
人間が経験していく苦しみの中で、愛する者と別れていく愛別離苦の苦しみは、最も切実なものです。愛別離苦の悲しみの中にある人に対して、さらに悲しみを重ねていくような慰め方をしてはならないと親鸞聖人が戒められたというのです。そして、愛別離苦の悲しみの中にある人には、お酒でもすすめて、憂いを紛らわし、笑顔の一つでも見せてくれるように慰めていきなさいとおっしゃったといいます。
浄土真宗では、命終えていくことを阿弥陀如来のお浄土に生まれていくと聞かせていただきます。しかし、愛別離苦の悲しみの中にある人に対して、「亡くなった人は、お浄土に生まれていったんだから、泣いてはならない、喜びなさい」というように、愛別離苦の悲しみを否定するようなことがあってはならないというのです。悲しみや苦しみを抱くものだからこそ、私たちは、阿弥陀如来に願われているのです。誰にも分ってもらえない悲しみにも、阿弥陀如来は、そっと寄り添い一緒に悲しんでくださいます。悲しみや苦しみがあるからこそ、私たちは、それを大悲してくださる仏様に出遇うことができます。私たちにとって、悲しんだり苦しんだりすることは、大きな仏縁となっていくとても大切な事なのです。
しかし、その一方で、私たちは、不気味に映る死を前にして、死そのものを忌み嫌っていくという感情も抱いていきます。当たり前のことですが、今生きている私達は、自分が死んでいくということを経験したことがありません。また、死んだ人に、死とは何なのかを聞くこともできません。それだけに死んだ人を前にすると、その不気味さに恐れを抱いていくのです。不気味な死というものが、自分にも訪れるのかと思うと、それを直視することができません。自分が死んでいくということから目をそらし、迷信に頼り誤魔化しながら、不安の中で人生を過ごし、それでも、不気味な死を避けることが出来ずに、否応なく死んでいかなければならないのです。そのような死を忌み嫌い、恵まれた人生を、本当の意味で喜ぶことのできない在り方を仏様は、間違っていると教えておられるのです。
お釈迦様は、死が不気味なものでないことを、自らお示しくださいました。お釈迦様の死に立ち会った仏弟子の方々は、お釈迦様の死を涅槃(ねはん)に入られたと受け止めていかれました。涅槃(ねはん)というのは、ニルバーナというインドの言葉がなまったものです。ニルバーナは、「本物の安らぎ」という意味です。お釈迦様の死は、立ち会った方々の目に不気味には映らなかったのです。本物の安らぎの中に入っていかれたとしか思えないような死に様だったということでしょう。親鸞聖人も、世間のことは一切口にされず、ただ仏様への感謝の言葉ばかりを口にされ、念仏の息の中、臨終を迎えられたと伝えられています。これも不気味ではありません。お浄土という、深い安らぎの中へ生まれていかれたのです。
死は忌み嫌うべきものではなく、生も死も共に尊い意味があります。生き死んでいく私を、仏様のみ教えの中で、大切に味わわせていただきましょう。