先日、あるご法事の席で、故人について、次のようなお話を聞かせていただきました。
「亡くなった父は、本当によくお寺にお参りしていました。最後は、ほとんどを病院で過ごしていましたが、報恩講には、勝手に病院を抜け出して、お参りをするほどでした。病院からいなくなって、みんなが慌てて探しに行くと、本堂の一番前に座ってお聴聞しているんです。本堂でお聴聞している父の姿は、懐かしいですね。」
「仏法を聞く」ということについて、改めて、その意味を教えられた気がいたしました。「仏法を聞く」ことについて、本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人が、次のようにお示しです。
「仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。」
「世間のひまを闕きてきくべし」というのは、世間の様々な仕事、例えば、勤め先の仕事、家庭の仕事、地域の仕事など、私達が、人並みの社会生活を営む上で欠かすことのできない仕事を差し置いて、仏法は聞くべきものだということです。次の「世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。」というのは、それら世間の様々な仕事を工夫し、時間を作って仏法を聞くことは、あってはならない浅ましい姿だということです。いかがでしょうか?かなり厳しいお言葉だと思います。毎日の忙しい仕事の中、工夫をし時間を作って、お寺にお参りしようとする人を、お褒めになられるのではなく、お叱りになっておられるのです。普通の価値観の中で当たり前のように過ごしている私達には、非常に分かりにくいお言葉だと思います。
私達は、自分が生きるために、また、家族を養うために、また、社会が円滑に営めるように、様々な責任を果たしていかなければなりません。そのために自分に課せられた仕事を責任を持って果たさなければなりません。そして、その仕事を果たしていくことが、人間社会における自分の価値を確立していくことになるのです。もし、無責任に仕事を放棄し、社会的な役割を果たさないのであれば、その人は、当然、社会的には認められません。社会からは、価値のない人とみなされます。誰からも認められない人生ほど、惨めなものはありません。世間的な仕事を責任を持って果たしていくということは、自分の社会的な価値を高め、社会的な自分の居場所を確立していくことにおいて、非常に重要なことでしょう。私達は、このことを当然の前提として、社会生活を営み、人の価値を判断していきます。仕事ができ、社会的な貢献度の高い人は、価値の高い立派な人です。仕事ができず、社会的な貢献度の低い、例えば、ホームレス生活をしているような人は、価値の低いダメな人です。これが、私達の疑いようのない普通の価値観です。
しかし、仏教というのは、この疑いようのない価値観を破り、人として目覚めさせていくところに大きな意味を持つものなのです。そもそも、社会的な貢献度というのは、平たく言えば、社会にとって役に立つか立たないかということです。宗教を判断する時も、その宗教が、社会的に役に立つものかどうかで判断される方が多いですが、本来の宗教の本質は、そんなところにはありません。役に立つか立たないかで見ていく目に見えるものは、命ではありません。道具です。どんな命も、社会の道具ではないのです。役に立つか立たない以前に、命というのは、そのままで、どんなものとも比べようのない尊厳さを放っているものです。自分が、どれほどの尊さを持つものであるのかに目覚め、他の命一つ一つの輝きを知り、本当の喜びと慈しみに目覚めていく道が、本来の仏教なのです。
いくら社会的に立派な人であっても、自分自身と他の命が持つ、本来の尊厳さに目覚めることなく死んでいくなら、不幸としか言いようがありません。役に立つか立たないかで見ていく限り、生老病死を抱える人間は、どんな人も、最後には、必ず役に立たない道具として終わっていくのではないでしょうか。そして、それは、今日かもしれないのです。蓮如上人がおっしゃるように、本当のところ、明日は保証されていないのです。
仏法を聞くことが、世間事の二の次になってはいけません。一つひとつのご縁が、人生最後のご縁です。何を差し置いても、仏法を聞かせていただく、そんな先人のお姿を大切にさせていただきましょう。