先日、ある御門徒の七日勤めにお参りした時のことでした。御当家の方から、次のようなお話がございました。
「先日、私の妹が、友人と三重県の伊勢神宮に観光でお参りしようとしたらしいのですが、電話で、先日母が亡くなったことを伝えると、係の方から、四十九日が明けるまでは、お参りしてもらっては困ると言われたそうです。誰でもお参りできると思っていたので、私も、それを聞いて驚きましたが、どういう理由なんでしょうか?」
一般に神社仏閣というように、神社とお寺とは、同じような場所として認識されている方も多いように思います。しかし、神社とお寺とは、全くの別物です。仏教と神道とは、教えの根幹が、全く異なっているのです。神道というのは、教祖も聖典も存在しない日本国独特の民族宗教です。これは、日本民族が本来持つ、一般的な共通の価値観から自然に生まれてきたものといえます。神道が説く価値観は、日本人なら誰もが根に持っている価値観であり、仏教徒の意識の中にも、少なからず影響を与えているといえるでしょう。しかし、お釈迦様が説かれたみ教えは、日本民族が根に持っている神道の価値観とは、根本的に異なるものであることは、はっきりとさせておかなければなりません。
その両者の大きな違いの一つが、生と死の受け止め方です。神道の価値観を知る上で分かりやすいのが、『古事記』に記されているイザナギとイザナミの二人の神をめぐる黄泉の国の神話です。この二人の神は、愛し合う仲の良い夫婦でしたが、妻のイザナミが、先に死んでしまいます。夫のイザナギは、悲しみのあまり、死後の世界である黄泉の国に妻のイザナミを追いかけていきますが、腐敗し崩壊していく妻の恐ろしい姿を見て、イザナギは逃げようとするのです。その夫の行動に怒ったイザナミは、イザナギを逃がすまいと追いかけていきますが、結局、イザナギは、黄泉平坂に大きな石を置きイザナミの追跡を食い止めた上で、妻であったイザナミに、もう夫婦ではないことを宣言するのです。その後、現世に帰ってきたイザナギは、「吾は穢き国に至りてありけり」と言って、河原の水で黄泉の国の穢れを体から洗い落とすという物語です。このお話、日本人なら共感できるのではないでしょうか。つまり、死は、穢れた恐ろしい世界であり、生きている現世こそが、素晴らしい世界だということです。また、どんなに愛し大切にしていた妻であっても、死んでしまえば、たちまち恐れるべき対象に変わってしまいます。昔、葬儀の時に、遺族が、故人が使っていたお茶碗を割るということがあったそうですが、これも、故人に対して恐れを抱き、二度と家に帰って来ないことを願う意味があったといいます。
このような淋しい日本人の価値観に変革をもたらしたのが、他ならない仏教なのです。仏様のみ教えによれば、命終わった方は、決して穢れてはいませんし、まして、遺族の方が穢れているなんてことは、到底考えられません。悲しみをご縁に、喜びをご縁にお参りするところがお寺です。古代の日本人が考えたように、死が恐ろしい穢れたものであるなら、必ず死んでいく人間は、みんな恐ろしい穢れた黄泉の国に堕ちていくということでしょう。どんなに逃げ帰っても、水で洗い落としても、必ずその世界に堕ちていかなければならないことを、『古事記』の神話は、誤魔化しているように思います。お釈迦様は、死を我が事と受け止め、お悟りを開いていかれたのです。親鸞聖人も、有阿弥陀仏というお弟子に「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」とお手紙をしたためておられます。親鸞聖人亡き後、有阿弥陀仏は、親鸞聖人と同じ阿弥陀如来のお浄土へ生まれることを楽しみに、自分に残された日々を、大切に過ごしていかれたに違いありません。私達も、親鸞聖人と同じ阿弥陀如来のお浄土へ生まれていくのです。そのことを、親鸞聖人は、時を超えて教えてくださっているのです。黄泉の国に向かっている人生に、どれほどの価値があるというのでしょうか。生きることも、お浄土へ向かっていると聞かせていただいたなら、どんな人生であっても有難いはずです。
仏様のみ教えによって、自分の生と死を大切に味わっていくところに、本当の喜びは訪れてくるのでしょう。