先日、ある御門徒のお家で開かれた家庭法座で、お参りくださった方から、次のようなご相談をいただきました。
「ご院家さん、私は、こうやってご法話を聞かせていただくことが、本当に有り難いことだなと思っているんですが、心残りなのは、息子のことなんです。息子は、東京の方におりますが、盆とか正月には、必ず帰ってきてくれます。帰ってきた時には、まずお仏壇の前に座って手を合わせるように言っています。息子は、その通りにしてはくれるんですが、如来様のお心を聞こうとか、み教えを学ぼうとか、そういう具体的な姿勢が見られないんです。ただ、ご先祖を大切にするぐらいにしか思ってないようです。どのようにしたら、息子は、お念仏のお心を感じ取ってくれるんでしょうか?」
なかなか難しいご相談でしたが、住職からは、次のような趣旨のお話しをさせていただきました。
「親子といえども、自分以外の者に、如来様を信じさせることはできないと思います。その人自身が、自分の人生の中で如来様に出遇い、味わいを深めていくしかないと思います。でも、お母さんや身近な人にお念仏を喜んでいる人がいるかどうかは、とても重要なことだと思います。結局、ご自身が、本当にお念仏を喜ぶ身にさせていただくことしかないのかも知れませんね。」
それでも、心配そうな相談者の方を見た他の参詣者の方が、その方を励ますように次のようなお話しをしてくださいました。
「大丈夫ですよ。息子さん、いつかきっと感じ取ってくれると思いますよ。私の母も、如来様を本当に大切にした人で、家でいつもお念仏を称えていました。家の中で歩きながらお念仏をしている母を見て、若いときは、その意味が全く分からずに、変なことをしているな、ぐらいの気持ちだったと思います。それが、今、私も、家でお仏壇の前を通りすぎる時に、意識せずに自然とお念仏しているんです。この間、それに気づいて、私、母と同じことしてるわと思って、一人で可笑しくなったんですよ。そんなに心配されなくても、息子さんにもきっと伝わっていくんじゃないですか。」
浄土真宗の伝統が、脈々と伝わってきた具体的な姿を教えていただいたようで、大変有り難いご縁をいただいたことでした。
親鸞聖人の主著に『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という大変難解な書物があります。その中に、阿弥陀如来の救いの働きを磁石に譬えられている箇所があります。磁石というのは、周りにある鉄くずを引き付けていきます。鉄くず自身に、磁石に近づく力はありません。磁石が、鉄くずを引き付けるのです。引き付けられた鉄くずは、鉄くずのまんま、今度は、別の鉄くずを引き付ける働きをします。引き付けられた鉄くずは、磁石そのものに変わるわけではありませんが、磁石と同じ働きを持つ鉄くずに変化するのです。
磁石は、阿弥陀如来です。鉄くずは、凡夫である私です。凡夫である私は、自らの力で悟りに近づく力はありません。これは、努力が足りないということではなく、本来、鉄くずが動く力を持っていないように、凡夫も悟りに近づく性質を持っていないのです。しかし、悟りに近づくはずのない凡夫が、近づくという不思議が起こります。それは、他でもない阿弥陀如来の働きです。磁石が鉄くずを引き付けるように、阿弥陀如来が凡夫を動かすのです。自己中心の妄念の中に生きる凡夫が、阿弥陀如来の慈悲の心に礼拝するようになる、これは、阿弥陀如来の救いの働きなのです。そして、阿弥陀如来に引き付けられた凡夫は、磁石に引き付けられた鉄くずのように、周りにいる凡夫も、阿弥陀如来に引き付けていくのです。
阿弥陀如来の生きとし生けるものにかけられた純粋な願いは、大きな救いの働きとなって躍動し続けていきます。次々と悟りに近づくはずのない命が、引き付けられていく、そんな不思議な働きの中に、今の私もあるのです。周りの人が心配になるのも、私が、大きな救いの働きの中にある証拠です。不思議な働きの中に生かされる身の尊さを素直に喜ばせていただきましょう。