親鸞聖人のお名号の掛け軸

今年のお盆も大変暑いものでした。浄土真宗のお盆は、お浄土へ往生された故人を偲びながら、僧侶自身も御門徒からお育てをいただく大切な時間です。今年のお盆も、たくさんの御門徒の方からお育てを頂いたことでした。あるお宅では、次のようなお話を聞かせていただきました。

「御院家さん、今日は、お盆のお勤めがあるので、親鸞聖人のお名号の掛け軸をかけさせていただきました。この掛け軸をかけながら、いつも、『親鸞聖人がいらっしゃったから、こんな私がお念仏を味わえる。よう、おでましになってくださったなぁ』と思わせていただくのです。ほんとに、有難いことです。」

 「お名号」というのは、南無阿弥陀仏のことです。親鸞聖人の直筆のお名号は、現在、全国に三幅ありますが、いずれも国宝に指定されています。この御門徒宅には、親鸞聖人の直筆のお名号の複製版があるのです。その複製版の掛け軸を掛けながら、親鸞聖人の御出世の御恩を味わっておられるのです。大変、有難いことです。

親鸞聖人は、お名号を御本尊として、門弟に書き与えておられます。御本尊というと、阿弥陀如来のお姿を模った木像や絵像が一般的です。お寺の御本尊も木像ですし、御門徒宅のお仏壇の御本尊も木像か絵像が、ほとんどでしょう。数多くいた法然門下の門下生の中でも、「南無阿弥陀仏」という文字を御本尊として、手を合わせ拝んでいたのは、親鸞聖人だけです。法然聖人も、名号本尊を拝んでいたという説もありますが、はっきりはしません。この「南無阿弥陀仏」という文字、言葉を御本尊として味わっておられたところに、親鸞聖人だけが到達した深い宗教的境地があるといってよいでしょう。

そもそも、御本尊というのは、根本的に尊いものということです。それは、人生の拠り所とするものです。人は、何かを拠り所として生き、死んでいきます。何者にも頭を下げず、自分の思うがままに生き死んでいく無宗教を自称する人であっても、自分の経験というものを拠り所としています。その人の場合は、自分自身が御本尊です。御本尊が思うことは絶対ですから、仏様が、どのように教えられていても、自分の思うことが絶対なのです。昔も今も、これが、普通の人間の姿なのでしょう。

仏教徒というのは、仏様を御本尊とする人達のことをいいます。仏様とは、いったい何者なのでしょう。親鸞聖人は、仏様とは、「南無阿弥陀仏」であることを教えられたのです。「南無阿弥陀仏」という言葉は、誰にでも口にすることができます。また、どんな状況、どんな場所でも口にできます。口にできない人は、心の中で称えても構いません。いつでも、どこでも、誰にでも、南無阿弥陀仏が聞こえる所には、仏様がいらっしゃるのです。南無阿弥陀仏という言葉には、阿弥陀如来のお心が込められています。阿弥陀如来のお慈悲の心から零れ落ちた言葉が、南無阿弥陀仏です。その言葉の内容は、つづめれば、御本願の内容です。「あなたを見捨てることができない、我が名を称えよ、必ず我が浄土に生まれんと思え」ということです。詳しく言えば、親鸞聖人がお書きになった数多くのお書物の深い内容が、全部、南無阿弥陀仏についてのことです。さらに広げれば、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の経典の内容になります。お寺の御法座というのも、南無阿弥陀仏の中身を聞かせていただくのです。

阿弥陀如来は、その無限の徳を一言の言葉に込め、言葉そのものになって、私に寄り添ってくださってあることを、親鸞聖人は、私達に教えてくださったのです。この言葉に導かれて生き死んでいく者は、やがて、悟りの境地が開けてきます。愚かな自分自身を絶対の御本尊だと思い込み、自他ともに傷つけていく本来の浅ましい私が、如来様を御本尊とする身に変わることができたのも、親鸞聖人がお出ましになり、そのことを教えてくださったからです。

浄土真宗の御本尊は、私の言葉になって私を守り導いてくださいます。聖人の御出世の御恩を味わい、大切にお念仏させていただきましょう。

2015年9月1日