先日、ある御門徒の仏前結婚式が、正法寺の本堂で営まれました。正法寺で御門徒の結婚式が営まれるのは、実に、六年ぶりのことです。葬式仏教と揶揄されるように、仏教というのは、お葬式やご法事など、人の死に関わる事の方が実際には圧倒的に多いのが現実です。しかし、本来、死を見つめることは、そのまま生きることを見つめることなのです。なぜなら、死なない人はいないからです。生と死は、決して切り離して考えることのできないものです。死を仏教の教えに依って受け止めていくなら、同じように、生きることも仏教の教えに依って受け止めていくべきでしょう。
さて、先日、比叡山において2011年から千日回峰行を行じておられる釜堀浩元さんが、千日回峰行で最も厳しい行である九日間にわたる「堂入り」を無事終えられたニュースがテレビで放映されました。千日回峰行は、七年間にわたる行で、千日間に約四万キロを歩く行です。歩くといっても、小走りのような状態で、地球一周分の距離を進み続けます。そんな中、七百日の回峰行を終えた時に、「堂入り」という最難関の修行に入ることになります。「堂入り」は、明王堂というお堂に九日間籠る行です。九日間、食べることも水を口にすることすら許されません。また、眠ることも横になることも許されません。口には常に真言を唱え、不眠不休、絶食の状態で九日間行じ続けるのです。この度、釜堀さんが、九日間の行を終え、御堂から出て来られる姿がテレビで放映されていましたが、ご自分で歩くこともできず、両脇を支えられながらのお姿でした。しかし、千日回峰行は、これで終わるわけではありません。2017年9月の満行まで歩き続けるのです。そして、その千日回峰行が満行したら、完全な悟りが開かれるのかというと、決してそうではないのです。天台宗は、本来、この世で仏になることを目的としていますが、天台宗の修行者の方々は、この世で完全な悟りを開けるとは思っていないそうです。生まれ変わり死に変わり、永遠にわたって修行は続けなければならないのです。
この千日回峰行を行ずる修行者の姿から、仏の道を歩むことが、本来どれほどきびしいのかがうかがわれます。現在でも、比叡山の修行者は、出家の形をとりますが、僧侶が、結婚を禁じられていたというのも、とても家庭生活を送れるような状況ではないからでしょう。仏道を歩む者は、身も心も一生涯を仏道修行に捧げなければならないのです。
このような厳しい仏道修行に一生涯を捧げる姿は、とても尊く清らかなものですが、これが、成仏道の唯一の道であるなら、多くの方々にとって仏教の救いというのは、非常に狭く閉ざされたものと言わざるをえません。そこに大きな疑問を持たれ、誰もが同じように救われていく道を仏教の中に求めていかれたのが、法然聖人であり親鸞聖人だったのです。お二人とも、比叡山においてあらゆる命がけの厳しい修行を積んでいかれた卓越した天台宗の修行者だったのです。
とりわけ、親鸞聖人は、二十九歳まで常行三昧という、比叡山において千日回峰行をはるかに凌ぐ厳しさで知られる修行を積んでおられたことが分かっています。そんな卓越した修行者が、結婚をし家庭を持たれたのです。現在でも、千日回峰行を満行された修行者が、結婚をし家庭を持てば、堕落した姿として批判の対象となるでしょう。しかし、親鸞聖人は、浄土真宗の開祖として多くの方々から仰がれるような対象になっていかれました。それは、親鸞聖人の生き方に、多くの方々が、仏教の真実を受け止めていかれたからでしょう。
人生の節目の儀式というのは、自分自身の生き方を、その宗教によって確かめ訪ねていくものです。お寺、神社、教会と様々な宗教に関わっていく日本人の特徴を、宗教に関して寛容だという肯定的な意見もあります。しかし、自分自身の拠り所とさせていただくみ教えは、一つでなければならないと思います。他の宗教に対して寛容であることと、自分自身の生き方死に方を見つめていくことは別の問題です。
親鸞聖人の生き方に、自分自身の人生の意味を訪ねていくのが、浄土真宗のみ教えをいただく者の本来の姿です。掛け替えのない人生のために、仏法を丁寧に聞かせていただきましょう。