「まはさてあらん」

先日、この四月に大学に入学したばかりの大学生達が、お寺にお参りに来てくれました。いずれも正法寺日曜学校を卒業した子ども達です。それぞれが県外の大学に入学し、四月以来、初めて山口に帰省した子ども達ばかりでした。久しぶりに実家に帰って来た時、それぞれのお婆ちゃんやお母さんに、「お寺にお参りしておいで」と言われ、お念珠を持ってお参りに来てくれたことでした。

お寺にお参りするように勧めてくださったご家族の方々も、それに素直に頷いてくれた大学生達も、大変ありがたいことだと思います。先日のお彼岸の三連休にも、たくさんの方がお寺のお墓と納骨堂にお参りに来られていました。しかし、境内にいながら本堂までお参りされる方は、全体の半数ぐらいでしょうか。本堂にお参りするというのは、案外、難しいことなのです。

浄土真宗のお寺にお参りするというのは、他宗のお寺にお参りするのとは少し意味が違います。浄土真宗のお寺には、お守りがありません。また、祈祷や御朱印といったものもありません。これは、正法寺だけでなく、世界の親鸞聖人を御開山と仰ぐ浄土真宗寺院すべてに共通した姿です。

これは、宗祖である親鸞聖人の生き方が、お寺の姿に反映されているからです。親鸞聖人の奥様である恵信尼様が、末娘の覚信尼様にあてられたお手紙の中には、親鸞聖人が、かつて祈祷をしようとされ、深く悩まれたことがある事実が記されています。

それは、寛喜三年(一二三一年)四月のことでした。親鸞聖人は、この時、高熱を出されてうなされていました。ちょうどこの時、後に寛喜の大飢饉として歴史に刻まれる大飢饉がピークを迎えていました。前年から始まった寒冷化による異常気象と度重なる台風の被害によって、日本中から食べ物がなくなります。さらに寛喜三年二月からは、疫病が蔓延し治安が悪化していきます。群盗が横行し、道には餓死者の死体が溢れかえる状況であったことが、当時の貴族の日記に記されています。自分だけが苦しいのではありません。そこに生きる命ある者みんなが深い苦悩のどん底にいるのです。その高熱の中で、親鸞聖人は、夢を見られていました。その夢は、床に伏せった状態で『仏説無量寿経』を絶え間なく読んでいるものでした。目を閉じると、経典の文字が一字残らず光り輝いて見えたといいます。それと同時に、親鸞聖人は、十七、八年前に佐貫(現在の群馬県にある土地)で、同じように飢饉で苦しむ人々を何とか救いたい一心で、『浄土三部経』を心を込めて千回読もうとされ、途中で中断されたことを思い出しておられました。その時の千回読誦は、雨乞いの意味があったと言われてます。高熱を出し床に伏せってから四日目の明け方に、親鸞聖人は、苦しそうな中で「まはさてあらん」と一言呟かれたといいます。「まはさてあらん」とは、「まあそうであろう」や「これからは、そうしよう」という気づきの言葉です。

親鸞聖人は、高熱にうなされる夢の中で、何に気づかれたのでしょうか。それは、昔も今も、自分の中に残る自力をあてにしようとする慢心でした。数え切れない人々が、目の前で飢えに苦しみ、もだえながら死んでいく地獄のような風景を前に、それを何とかしたいという一心で経典を読むことは、優しい慈悲の心からの行為です。しかし、人間境涯の慈悲は、悲しくも徹底することはできません。鎌倉幕府でさえ、大飢饉の前に何も出来なかったのです。一人の人間が、目の前の無数の人々の絶望を救う力などあるはずがありません。私自身もまた、絶望を抱えた弱い凡夫なのです。祈祷やお守りでは、誤魔化しはできても、本当の意味で、人が救われることはないのです。

「まはさてあらん」というつぶやきは、私も他人も、本当の意味で救われていく世界は、お念仏の中にしかないという気づきです。飢饉でなくても人は死にます。死の縁は無量です。死から人を守るのが仏教ではありません。生死の不気味さを破り、生にも死にも尊いといえる意味をもたらしてくださるのが仏様のみ教えなのです。親鸞聖人は、私も他人も、共に苦悩を抱える弱い凡夫であり、その弱い凡夫同士が、共に救われる道があることを、苦悩の中に明らかにしてくださったのでした。

大切なものは、自分の都合を守ってくれるものではありません。あらゆる命を慈しみ悲しんでくださる如来様の真実心であり、その働きの中に、自分や他人の人生を尊く受け止めていく礼拝の心にこそ、人生における本当に大切なものがあるのです。
世間ごとの中だけで虚しく人生が終わっていくのではなく、いつも如来様が人生の中心であることを大切にさせていただきましょう。

【住職の日記】

 

2024年10月1日