「正法寺大火災からの復興の意義」

先日、仏教婦人会結成100周年に向けて、これまで仏教婦人会で活動してこられた方々から、それぞれの想い出を聞かせていただく集まりが企画されました。その中で、90歳代の会員の方から約70年前の正法寺の大火災とその後の復興の様子について、詳しく聞かせていただくことができました。

昭和三十一年十二月二十日の昼間、突如、正法寺本堂から火の手が上がり、山門と塀を残し、本堂と庫裏などの建物全てが焼失するという大惨事が正法寺を襲いました。しかし、その後、当時の御門徒の方々の懸命な尽力により、わずか三年後の昭和三十四年に現在の本堂が落成するに至ります。火災が起こったとき、いの一番に頭から水をかぶり、燃えさかる火の中に飛び込んで、燃えていく本堂からご本尊を運び出してくださった御門徒の方がおられたことも聞かせていただきました。正法寺の復興は、本堂から火の手が上がったその瞬間から始まったのです。

この度、特にお話くださったのは、復興資金を募るために仏教婦人会の方々が中心となり尽力くださった托鉢の様子についてです。当時、火災保険というものはありませんでした。また、戦後十年が経過したばかりで、まだまだ社会全体が復興の途中にある状況です。そんな状況の中、現在の価値にして何億円という資金を、仏教婦人会の方々が、各地を托鉢して歩かれ、募っていかれたのです。この度、お話を聞かせていただいた方は、当時、二〇歳代だったといいます。正法寺に一度、みんなで集まり、いくつかのグループに分かれ、それぞれ今日の行き先を決めて出発するそうです。その方のグループは、秋穂・二島に向かわれたそうです。一月・二月という一番寒い時期に、秋穂・二島まで歩いて向かうということだけでも大変なことです。一軒、一軒、知らない家を訪ね、事情を話し、募金をお願いするのです。しかし、当時は、概ね温かく迎えてくださる家が多かったといいます。戦後十年、まだ社会全体に助け合いの精神が満ちていたのでしょう。そして、協力してくださる募財は、現金ではなく、ほとんどがお米だったそうです。当時は、現金よりもお米などの食料の方に価値があったのです。しかし、女性の方が、何十キロというお米を担いで、寒い中、秋穂・二島から正法寺まで歩いて帰られるというのは、並大抵の大変さではなかったと思います。まさしく、御恩を身に刻みながらの御恩報謝の尊い行いであったと言う他ありません。

お話を聞かせていただいて、浄土真宗のお寺が、本来何のために建立されているのかを改めて教えていただいたような気がいたします。もし、それぞれの家の先祖供養や葬儀のためにお寺が必要であるというなら、たくさんの人が集まる本堂のような建物は必要ありません。法務を担当する僧侶の居場所があれば、それでいいのです。しかし、70年前の当時の正法寺の御門徒の方々は、文字通り身を粉にして、たくさんの人々が集える大きな本堂を再興していかれました。それは、お寺という場所が、多くの人が集える場所として、なくてはならないものだと本気で感じておられたからでしょう。しかも、それは、公会堂のように、単に集えればよい場所ではなく、あくまでも本堂でなければならなかったのです。本堂は、ご本尊が御安置されているお堂であり、そこは、阿弥陀如来様のお心を仰ぎ礼拝する空間です。

阿弥陀如来様のお心とは、大慈悲心と言われる決して見捨てることのない深い慈しみと誰にも分からない深い悲しみに共感してくださるお心です。そのあらゆる命を貫いている清らかなお心は、私の命の根本問題を解決してくださいます。何のために生まれ、何のために生き、何のために死んでいくのか、惑い悩み怯えることしかできない私に、深い安心を与え、生まれ、生き、死んでいくことに合掌していける世界を恵んでくださるのです。

救いとは、生きることも死ぬことも、その尊い意味をはっきりと確認し、どちらも有り難いと合掌していけるような世界が恵まれていくことです。生まれてきたからには、死も含めた自分の人生を味わい深く喜べる世界をいただかなければ、自分の命に責任を果たせたとは言えません。そんな世界に出遇っていける唯一の場が、お寺の本堂なのです。

お寺の本堂で阿弥陀如来様のお心を聞かせていただき、自らの人生を本当の意味で全うしていくことは、人間境涯が求める権力欲、財欲、色欲などを満足させることよりも、はるかに重要で大切なことであることを、70年前の多くの方々は、はっきりと確認しておられたということでしょう。

今、私の目の前に、その本堂という空間が恵まれていることの有り難さを味わい、本堂で仏法を丁寧に聞かせていただく日々を改めて大切にさせていただきましょう。

【住職の日記】

 

2024年8月5日