明けましておめでとうございます。

 さて、昨年は、親鸞聖人の師匠である法然聖人が浄土宗というみ教えを開かれて、ちょうど八五〇年にあたる年でした。昨年は、東京と京都の国立博物館で、「法然と極楽浄土」と題する特別展が開かれました。そして、今年の十月には、同じ特別展が、大宰府の九州国立博物館でも開催される予定です。法然聖人の直筆が確認される『選択本願念仏集』や、親鸞聖人が法然聖人から賜ったとされる法然聖人の直筆入りの肖像画など、普段は決して目にすることはできない貴重なものが出展されています。大宰府で開催される折には、ぜひ足を運んでみられてはいかがでしょうか。

 法然聖人は、四十三歳の時に、唐の時代に活躍された中国の善導大師が残された一文を通して、阿弥陀如来の本願のお心に出遇っていかれました。その善導大師の一文が、「一心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐臥に、時節の久近を問わず。念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆえに」というものです。この一文に出遇ったとき、智慧第一の法然房と讃えられた非常に理知的な法然聖人が、落涙されたと伝えられています。

法然聖人に涙を流させたのは、特に「かの仏の願に順ずるがゆえに」という最後の一文にあったとされています。中国の善導大師は、『仏説無量寿経』の中に説かれる阿弥陀如来の本願の文を解釈する中で、「衆生称念すれば、必ず往生を得」と言われていました。「人は、お念仏をすれば、必ずお浄土に生まれることができる」という意味です。しかし、法然聖人は「必ず」という言葉に、どうしても頷けなかったと言われています。

私の上で、「必ず」ということが成立するのは、「生まれた者は必ず死ぬ」ということぐらいです。「必ず」は、九割九分では成立しません。「必ず」は、十割の確率です。「必ず幸せにする」と言った場合、本当にそれが実現する確率はどのぐらいでしょうか。「必ず」という言葉は、人間境涯の上では成立し得ない、非常に危うい言葉なのです。しかし、本来、私の上では成立するはずのない「必ず」という言葉を、善導大師は使われるのです。なぜ、お念仏をすれば、お浄土に生まれることが「必ず」と言い切れるのか、法然聖人は、自らの救われようのない深い罪業と向き合い、さらに苦悩を深めていかれます。その法然聖人の深い苦悩を破っていった言葉が、「かの仏の願に順ずるがゆえに」という一言だったのです。

なぜ「必ず」と言えるのか、それは、仏様の願いに叶っているからだと言われるのです。私が、お念仏をすることは、仏様の願いなのです。その仏様の願いの通りにお念仏をすれば、私は、必ず救われていきます。その「必ず」は、仏様の上で約束されていることだからです。仏様が、私に「必ず」と仰せなのです。仏様の「必ず」と仰せのお慈悲が響いたとき、法然聖人は、思わず感動と喜びの涙を流されたのです。

それから二十六年後、ご自分と同じような苦悩のどん底にいる一人の青年が、法然聖人の前に現れました。その青年は、二〇年にも及ぶ命がけの仏道修行の末に、自分自身に絶望し、法然聖人に救いを求めに来たのです。最初にかけられた一言は、どんなお言葉だったのでしょう。それは、伝わっていません。おそらく、凍てついた青年の心に灯火が灯るような、非常に温かいお言葉だったことでしょう。法然聖人は、自分の弟子となったその青年に、綽空という名を与えます。綽空の綽は、道綽禅師の綽です。道綽禅師は、法然聖人を苦悩の底から救い出した善導大師の師匠であり、厳しい自力の仏道修行の道を捨て、阿弥陀如来の願いの中にお念仏をいただく仏道を勧めていかれた方でした。そして、綽空の空は、法然房源空、ご自身の本名の一字でした。入門したての青年に、ご自分の一字を与えることは、数百人に膨れ上がっていた法然聖人のお弟子の中でも、特別中の特別のことでした。それだけ、ご自分が出遇っていかれたお念仏のお心と、その真髄を、この青年なら間違いなく受け継いでくれるだろうという確信があったのでしょう。

その後、この青年は、幾多の苦難に会いながら、その苦難の中でお念仏の道を大切に味わい、「必ず」の意味を何度も確認していかれたのでした。そして、この青年は、やがて前人未踏の宗教的領域を切り開き、名を親鸞と改め、ご自身もまた、後の人々の灯火となっていかれたのでした。

今年も、まもなく親鸞聖人の御正忌報恩講をお迎えいたします。誰もが苦難の人生をいただいているはずです。親鸞聖人の御遺徳を偲ばせていただきながら、心に温かい灯火をいただく、ありがたく尊い報恩講のご縁をお迎えしていきましょう。